先日、たまたまA市の教育委員会の人と話をする機会がありました。
最近・・というか、ずいぶん前から「女らしく」とか「男らしく」という表現は、
教育の場において、使ってはいけない言葉になっているそうですね。
「自分らしく」はOKなのに、「女らしく」とか「男らしく」がダメというのは、
ずいぶん偏った話です。
これは女子と男子を差別してはいけない、ということなのでしょうが、
ある意味、平等教育の弊害でしょうね。
個性を尊重しろと言いつつ、生命の根幹である性別の違いを否定するのですから、
何だか、よくわかりません。
その教育委員会の人はまともな人だったので、立場上、
自分が言えないもどかしさを語ってくれました。
自然の中において、男女の違いがあるのは当たり前のことです。
明らかに”違い”があるのに、両者が”同じ”存在だと無理やり言わせるのは、
平等教育とは言い難く、かえってファシズムに近いのではないかと考えたくもなる。
もちろん法のもと、社会の中で与えられる権利や機会に不平等があってはいけませんが、
男子と女子を同じ場所で着替えをさせたりといった風潮は如何なものかと思います。
小学校1年の時、担任の先生から「あなたたちはみんな同じなんです」
と言われ、びっくりした記憶があります。
今考えてみれば、その先生は、”努力する人としない人に、違いが出てくるんですよ”
という話をしたかったのでしょうが、子供にそんなの何だかよくわかりません。
家に帰って、母にその話をしたら
「そんなバカな話ないでしょ! アタマの良し悪しはあるわよ。
まったくF先生も何言ってんのかしら!」と激怒しました。
父からは「勉強しないと、いくらもとのアタマが良くてもダメなんだ」と言われました。
親はよくわかっていたんですな。
平等や自由が、最初から当然の権利として自分たちにあるもんだと教えるのは、
教育上あまりよろしくないと思います。
人類の歴史上、それらを得るためにどれだけの血が流され、
また、今でも国や地域によって、そのための戦いが続いていることを思えば、
簡単に自由とか平等が当たり前にあるものとは考えられないはず。
さて続きは長くなるので、次回ということで。
画像は2月発売予定、カメレオンのイラストです。
最近・・というか、ずいぶん前から「女らしく」とか「男らしく」という表現は、
教育の場において、使ってはいけない言葉になっているそうですね。
「自分らしく」はOKなのに、「女らしく」とか「男らしく」がダメというのは、
ずいぶん偏った話です。
これは女子と男子を差別してはいけない、ということなのでしょうが、
ある意味、平等教育の弊害でしょうね。
個性を尊重しろと言いつつ、生命の根幹である性別の違いを否定するのですから、
何だか、よくわかりません。
その教育委員会の人はまともな人だったので、立場上、
自分が言えないもどかしさを語ってくれました。
自然の中において、男女の違いがあるのは当たり前のことです。
明らかに”違い”があるのに、両者が”同じ”存在だと無理やり言わせるのは、
平等教育とは言い難く、かえってファシズムに近いのではないかと考えたくもなる。
もちろん法のもと、社会の中で与えられる権利や機会に不平等があってはいけませんが、
男子と女子を同じ場所で着替えをさせたりといった風潮は如何なものかと思います。
小学校1年の時、担任の先生から「あなたたちはみんな同じなんです」
と言われ、びっくりした記憶があります。
今考えてみれば、その先生は、”努力する人としない人に、違いが出てくるんですよ”
という話をしたかったのでしょうが、子供にそんなの何だかよくわかりません。
家に帰って、母にその話をしたら
「そんなバカな話ないでしょ! アタマの良し悪しはあるわよ。
まったくF先生も何言ってんのかしら!」と激怒しました。
父からは「勉強しないと、いくらもとのアタマが良くてもダメなんだ」と言われました。
親はよくわかっていたんですな。
平等や自由が、最初から当然の権利として自分たちにあるもんだと教えるのは、
教育上あまりよろしくないと思います。
人類の歴史上、それらを得るためにどれだけの血が流され、
また、今でも国や地域によって、そのための戦いが続いていることを思えば、
簡単に自由とか平等が当たり前にあるものとは考えられないはず。
さて続きは長くなるので、次回ということで。
画像は2月発売予定、カメレオンのイラストです。
マスオさんのご意見、まったく同感です。
誤解を恐れずに申し上げれば、
貴ご両親様は偉いんじゃないですね、
当たり前、なんですね。
今の教育には、「義務」が見えませんね。
何処行っちゃんたんだろか。
その教育委員会の人は、
よくモンスターペアレントと呼ばれる
親の電話を受けるそうですが、
その殆どが匿名でかけてくるそうです。
でも、誰だか全部わかっちゃうそうですけど。
注文を匿名でするというはルール違反だと思いますけど、
まったくもって困ったものです。
ですから少しでも違った人を排除しようと
いじめが発生するのです。
いじめって陰湿でいじめてる方が問題なのに、
教師はいじめてる方も人権があると、
きちんと対処できないのですね。
ただね「女らしく」しなさいと私などは
母に言われ続けてウンザリしていました。
女に生まれて社会的な可能性を限られたような気がしたのですよ。
ただ混合名簿で着替えまで一緒となると
それはやりすぎです。
小学校高学年は女子はもう大人の身体になっていますからね。
そういうことに親御さんがなぜ抗議しないか不思議です。
違った人間を排除しようといじめが発生するのは、
確かだと思います。
私の友だちは、それを「友だち原理主義」と呼んでいます。
「いじめの構造」という本(内藤朝雄著 講談社現代新書)
の中では、そのことが書かれています。
学校という閉ざされた空間に子供を押し込めて、
無理やり「仲良くしなさい」と強制する。
著者は、そんな中でいじめは決してなくならないと主張しています。
詳しくはまたブログの中で申しあげますね。