つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

生命は不滅

2018-10-13 | Weblog
記憶が生命の世界を作っている。
この生命世界があの世の実体となっている。
生命は、肉体を持って活動することによって記憶が作られ、
その記憶が生命世界の実体となっていく。
だから、生命の真実の世界が死後の世界である。
生命は、生命の真実の世界を幸せにするために、肉体を持ってこの世に生まれてくる。
生命はこの世の幸せを得るために誕生してくるのではなく、
生命の真実の世界の為に誕生してくるのである。つまり、死後の世界の為に
この世に生まれてくるもので、故に、生命は死が生の絶対条件となっている。
死は、生命の単なる肉体の消滅、肉体からの離脱であり、生命自体が無くなってしまうことではない。

生命が離れた肉体は、もはやただの肉の塊でしかない。一切の反応を示さないものとなってしまう。
肉体から離れた生命は、今生の肉体活動の記憶の世界となっていく。それがあの世である。
そのために、この世とあの世は少しも変わらない世界となっている。これが「色不異空」である。
あの世は記憶の現象世界であるために、肉体も記憶の肉体である。
あの世で新たに与えられた肉体というのではない。そのために、あの世で記憶が作られることは無い。
もって、あの世の記憶というのは一切ない。だから、生命の空白の間であるとしている。
この世に生じてきて、稀に前世の記憶がよみがえっても、それは前世の記憶であって、あの世での記憶というのでは無い。
なぜなら、あの世では肉体がないためである。記憶できる媒体の肉体がないためである。

あの世はこの世の記憶の世界である、だから、この世が苦しいからと言って自殺して、
あの世に逝ったとしても、あの世もこの世と同じく、苦しい世界となっている。
お分かりだろうか?「空不異色」なのであるから。

生命は肉体を持って生まれてくるのは、あの世を幸せとするために生まれてくるのである。
肉体は、真実の生命世界を作るための媒体である。その真実の世界が生命の幸福でなければならない。
なぜなら、エネルギーの法則が、善悪のないための絶対善となっているためである。だから、
幸せになるために、なるまで輪廻転生をするのである。
それはまた、一切苦であるために、なるべく早くこのエネルギーの法則を悟り、
輪廻転生から離れることである。法則を悟れば、どのように生きていかなければならないのか、
その方便が自ずと示されてくるからである。誰から教わることなく、
正しく法則に添って生きていくことができていくためである。

死は生命の無くなることではない。
そのエネルギーの法則を説いているのが般若心経である。


ただ、この般若心経正しく説かれなくなっている。
知識だけで解説しているためである。

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馳騁畋猟

2018-10-12 | Weblog
ガソリン価格が上がってきている。
年金暮らしには相当の痛手、更に家に閉じこもることになってボケが進む。
通院にもいけなくなって、さらに悪化していく。あ~ぁ、貧乏生活はただただ耐え忍ぶことを強いられる。
最低限の文化的生活を送るということを謳ったテレビ番組もあるほど、
巷では貧困に陥っていく人たちが多いのだろう。
政治家は高給取り。それも、庶民の税金から賜っている。
悪徳代官のように自分たちの身は肥やしながら、無能な仕事ぶりで、日本社会は
格差が広がる一方。
世界からも、日本は豊かにして貧しい国になっていると揶揄されている。
このままでは、日本沈没は免れない。庶民をいじめては、
結局のところ自分たちも滅ぶということを知らないのだろう。
日本を良くしようと志をもって政治家になったであろうに、いつの間にか私利私欲に走り、
癌細胞化して、一途に崩壊の道を辿っている。

幼子があんなにかわいかったのに、成長するにつれて道徳に反抗して、いつの間にか悪ガキになっていく。
あの青く澄んだつぶらな瞳の眼差しはどこへ行ってしまったのだろう?
強きをくじき弱きを助け、みんな仲良く、助け合いの心をもって、と教育されてきたのではないか?
愛が地球を救うとみんな思っていても、愛を理解してないために、
欲望に駆られて愛情が情けのないものになっている。

教育は道徳が大事である。でも、もうこの世の存続には遅すぎた。
ここ数年、更なる天変地異は起こる。それは、大衆迎合が悪の気となっているための反応。
偏に利己的となっているためである。


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うつむくことばかり

2018-10-10 | Weblog
老人大国、年寄りは大事にしようというのは表向き、
内心は早く死んでってもらいたいと思っているのがこの国の算段。
なぜなら、年寄りの生活の基盤である年金を減らしてくるのだもの、
いくら口では長生きしてくださいと言われても、暮らしていくためのお金を減額され続けては、
長生きしたくてもできなくなってくる。言葉と行動がちぐはぐなのが今の政府。
金持で元気な人達ばかりで社会はできているとおもっているんだろうな。
そうでなければ、
生活していくための基盤である年金を下げたりはしないものだ。
生活保護があるじゃないかというけれど、様々に蔑まれて、親族にも心配かけて、
とことん人間としてのプライドを傷つけられて、それでも、働け働けと尻をたたかれつづけられて、
何とも肩身の狭い思いをして生きなければならないのを、
人間の尊厳だのなんだのと綺麗ごとを並べられて、生かされても地獄だろう。
必ずしも自業自得ばかりが人生ではない、と知るのは神のみとする。
俗世は、不条理に満ちているものだから。

ま、そんなことで、前代未聞の老人大国、格差拡大一途の経済大国、
裕福で貧困国、偽善に溺れる日本社会である。
だから、
これからますます悲しみに驚くことばかりが起こる。
切実に感じる。


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心を込める

2018-10-08 | Weblog
心のこもったものには引き付ける力がある。
つべこべ言う必要もない。
説明は不必要、見るもの聴くものには感が伝わる。
真心には知恵が識る。
本物は壊されることがない。

本物たれ、難しくは無い、真心にして!
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あわやなる状態

2018-10-06 | Weblog
物の値段は上がり給料は下がる一方、
出生率は下がる一方、労働力不足となり、年金も目減り、
生活保護者は急増、
老人の労働力に頼り、老骨に鞭を打って働く過酷な環境、経済は衰退の一途。
人情も希薄にして町はゴーストタウン化。
天災人災多発して、キツネとタヌキの騙しあい、昔の歌にあったように、
右を向いても左を見ても馬鹿と阿呆の絡みあいの社会である。
大体にして、村町市県都道、国という公務に携わる者の不正や、大手企業の不正、
目に余るものがある。
人間の個々の品性に欠ける事柄が多いもので、だから、
厭世観が募るのも無理は無い。
老若男女自殺の多い国である。
司法立法行政、法治国家の乱れは不条理だけである。
人の為にと作られた秩序が、強者を助け弱者にして為にならずとなっているのは
情けないものである。
これらは明らかに崩壊の兆である。いつ滅してもおかしくない状態といえる。
関東大震災が再び、いつ起こってもおかしくは無い状態にある、と予想されているように、
あまりに人の不正が多いのを見てもうなずけるのである。

気というのは、連動しているもので、高じてスイッチが入る。浄化のスイッチである。
異常発生というのは、そのものの自滅に繋がっている。

今の世の中の進歩は、昔からある人の悪の進化である。それは、
健康を害し、精神的にも追い込まれて、悲惨を状態化していく。
どこもかしこもイライラして、殺伐としていく。
街に出れば、欲望がそそられる。貪欲。
美味しいとする飲食店には、行列してまで食べようとする。高級な品、新規販売に興味がそそられ、
物資豊かにして経済順調な社会にみえるのは、反面的役割、
嫌なことから目を背ける状態にある。利己にして保身に走る心理は、
結局癌細胞のごとくである。自らにして自らを滅ぼす様である。

エネルギーの法則に逆なでしたのでは、たちまちとなっていく。


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愛情が救いとなる

2018-10-05 | Weblog
人生、人間関係が一番厄介なこと。
人間関係がよければ世の中は楽しいものだが、
善い人が少なく意地の悪い人が多いのが世の中であるために、
この世は生き辛くなっている。
どこの世界にいても、意地汚い人がいるものである。
だから、先人たちはこぞって愛情を唱えた。
愛ある行動がすべての幸せに通じることであると訓えた。
愛情のある生活、これが三代にも続く幸せの行為である。

自分が一番愛しいものであると知る者、利己的であってはならない。
鉄則である。
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浄化の決定

2018-10-04 | Weblog
二十一世紀中、あと約80年余りの時の流れの中に、
地上に著しい変化が起こる。それは、近々に起こるかもしれないし、
80年ぎりぎりとなるかは定かに非ずだが、必然的21世紀は越えられないと感受する。
近年の異常気象が示すのは兆しである。
どこの国も不正、不正、不正。
先進国である日本もここ数年、法治国にもかかわらず乱れが著しい。
頂点が乱れては、治まりは付かない。
呆れたことがまかり通諦ったのでは、明らかなる滅亡の兆候。
天に地に人に浄化のスイッチが入った。今は
いつ裁かれるかは21世紀中とだけ感知する。
免れることは無い一本道となった。
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シューニャという

2018-10-03 | Weblog
あの世は記憶の現象の世界である。
この現象の世界というのは、夢の世界と同じである。
夢の世界もこの世の記憶の現象世界であるために、
夢の世界とこの世は、少しも変わらない世界となっている。
お分かりだろうか?
夢を見ているとき、今が夢の世界であると認識していない。
それと同じように、人が死んでも、瞬間あの世となっていくために、
自分が死んだことすら認識できない。つまり、エネルギーである生前の記憶が、そのまま
現象していくために、生きている自分という肉体を認識するからである。
自分を認識できるために、死んで動かなくなった肉体は、他人の肉体であると認識する。
死は自分ではなく他人の死であると思うのである。これが、
エネルギーに死がないための現象である。だから、
あの世となっていることにも気が付くことがないために、
今まで通りの記憶の世界で生きていく。肉体は生前の記憶の現象肉体であるために、
新たに記憶が作られるということがない。そのために、死後の世界の記憶が
刻まれることは無く、一切思い出すということができなくなっている。
死後の世界が知ることのできない世界となっているのはそのためである。

この世に生まれてきたときに、この世であると認識することがなく生まれてくるのと
同じように、あの世に逝った時もあの世であると認識されることなくあの世に生じる。
そうして、生命は輪廻していく。エネルギーが円運動の法則となっているからである。

輪廻は、エネルギーに死がないために、繰り返される生命の円運動である。

生命は、ただこの世とあの世を行き来するもので、記憶はこの世でしか作られない。
このエネルギーの法則を正しく理解できれば、前世の記憶がよみがえってくる。
輪廻した人生の記憶がすべて思い出すことができるのである。これが悟りである。
現身しているという現実をいう。
でも、
死後の世界の記憶は、刻まれれないために、思い出すことはない。
だから、どんなに悟っても、死後の世界を知ることは無い。
これが生命の空白の世界、時間も空間もない世界であるために、変化のない世界として、
ゼロとなり、生から生への接点となっている。どんなに長い間、
あの世にいたとしても、時間はゼロであるために、転生は生から生の瞬時となっている。
100万年あの世で過ごしていたとしても、記憶となることは無く、飽きることも無い。
全くの生命の空白の間なのである。それがゼロ、エネルギーの法則、円運動による
ゼロの姿形、真円である。
中がうつろでふくらんでいるものという。


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善悪のない正義の自由

2018-10-02 | Weblog
この世では、死が生命の無くなることであると認識されているために、
それが間違った認識であると訓えられても、信じることができない。
人が死んで、誰一人死後の世界より返ってきた人がいないために、
死が命の無くなってしまうことであると思っているからである。
死んでしまえば何もかもおしまいと思っているのが大半の人である。

エネルギーの法則を正しく理解すれば、死が生命の無くなることではないと知れてくるのだが、
エネルギーの法則というのが何なのか知らないために、また、訓えられても
この世の常識が邪魔をして理解されることがない、できないために、
真実を語られても馬耳東風となっている。
そのため、生命というのは、本当はこうであるよと生命の真実を告げられても、
人は聴く耳を持たないし、逆に非常識なことをいう人として距離をとる。
馬の耳に念仏とはよく言ったものである。先人たちは実に優れていたのだと思うも、
優れた人というのは極稀であるために、正しく受け入れられることはなかった。
どんなに世の中が進歩しても、死が正しく理解されてはいない。
そのために、死が恐怖となって、すべての恐怖の基となっている。
死が生の絶対条件であるために、人は死の恐怖から逃れられないでいる。
そのために、
この恐怖から解脱するために説かれたのが般若心経。
恐怖がなければ、神も仏も必要無くなる。
すべての恐怖の基である死が理解できれば、死は生命の恐怖となるものでないことが
正しく理解できてきて、神仏に縋って生きていかなければならないことから離れられていく。
神仏は、人の誤った解釈の下創られている産物、人と何ら変わらない進化の歩みにある生命。
万物の創造主ではない。人の生命と同じように、善悪の思いにある生命であるために、
人と同じように考えるものである。人に、善人と悪人がいるように。


般若心経を正しく理解するだけで、エネルギーの法則が知れて、生命の
真実が正しく知れてくる。死が生命の恐怖となることがないと正しく知れてくる。
だから、大衆の為として説かれたのである。以って、端的に語られている。
実に短く収められているのだが、正しく解釈するには少しコツがいる。
コツがいるために、ここが最大の難関となって正しく解釈がされてこなかった。
そのために、心経はただの読経、うわべだけの功徳、所謂個々人の気休めにすぎないものとなっている。
写経とて同じことである。その人の思いの度合いによる気休めに過ぎなくなっている。
ほとんど皆無といってよいほど効力はない。
本当は最高最短の効力が示される、まさに有難い経なのだが・・。

コツというのは、個々の持つ知恵の力、知識ではない知恵である。
コツは本人しかわからない本人だけの感受の識、つまり、経験の識である。こう言う言い方でしか私にはできない。
個々人の聴く耳にたよるものである。


エネルギーの法則は、自由が主である。そのため、自由を理解するものが
法則を身につけることができる。
自由というのは深遠であるが、単純でもある。寧ろ、単純が法の主旨に適うと、
各人の自由に願う。
法則の自由はただ一つから成っている。
絶対の正義なる自由である。

エネルギーの法則は、自由なる意思である。
善悪のない意思の自由が正義である。エネルギーの円運動の自由の意思。
これがエネルギー。百千万劫難遭遇エネルギーである。
何かの為という目的など持ってはいない。
故に、感情に動かされることなどなく、非情なものである。
ただ意思の自由が正義となっている。




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