神様がいると思う人でも、神様の姿を見た人はいない。
神様は全知全能であるから、人間の前に現れることなど訳もないことである。
百聞は一見に如かずである。大勢の前に「これでどうよ!」と現れるだけで済む話である。
そして、人間の不可能なことをいとも容易く、大勢の前でやってのけたら、誰もが即信じるであろう
簡単なことである。全知全能とはそういうことである。
が、
どんなに祈っても願っても頼んでも現れてはくれない。なぜ?
それは、神という認識が誤っているためである。
そのために、現れることは無い。だから、いないと言えばいないし、いると思えばいるという、
各自の思いに由る存在となっている。誰もこれと言って証明できないために、
否定もできなければ肯定もできないものとなっている。
「わからないもの」これが神であるために、恐怖となって一心に祈り続ける対象となっている。
祈ることによって思考が停止されるために、恐怖がされなくなって救われたと感じる。
これが神の御加護と認識し、事あるごとに一心に祈る。
祈りは行為の停止である。
停止は死を意味する行為である。なぜなら、
たとえば、獣に狙われたとき、戦うか逃げるかしなければ、やられてしまうだろう。
つまり、じっとして震えていたのでは勝ち目はない。こっちに来ないでと祈っていたのでは、
やられてしまうということである。祈っても願っても動くという行動、つまり、戦うか逃げるかという
行動を起こさなければ死ぬことになるということがわかる。
祈りは恐怖心克服だけのための行為である。その場からの恐怖がなくなったわけではない。
寧ろ、何ら変わらず恐怖は迫っているのである。
一心に祈る行為はどうだろう、行動せず止まっているではないか。
だから、
祈る行為がいけない行為であることがわかってくるはず。祈らず動くこと!肝要である。
人間は、動くもの、一秒たりとも止まっていない動物なのであるから・・・。
神様は全知全能であるから、人間の前に現れることなど訳もないことである。
百聞は一見に如かずである。大勢の前に「これでどうよ!」と現れるだけで済む話である。
そして、人間の不可能なことをいとも容易く、大勢の前でやってのけたら、誰もが即信じるであろう
簡単なことである。全知全能とはそういうことである。
が、
どんなに祈っても願っても頼んでも現れてはくれない。なぜ?
それは、神という認識が誤っているためである。
そのために、現れることは無い。だから、いないと言えばいないし、いると思えばいるという、
各自の思いに由る存在となっている。誰もこれと言って証明できないために、
否定もできなければ肯定もできないものとなっている。
「わからないもの」これが神であるために、恐怖となって一心に祈り続ける対象となっている。
祈ることによって思考が停止されるために、恐怖がされなくなって救われたと感じる。
これが神の御加護と認識し、事あるごとに一心に祈る。
祈りは行為の停止である。
停止は死を意味する行為である。なぜなら、
たとえば、獣に狙われたとき、戦うか逃げるかしなければ、やられてしまうだろう。
つまり、じっとして震えていたのでは勝ち目はない。こっちに来ないでと祈っていたのでは、
やられてしまうということである。祈っても願っても動くという行動、つまり、戦うか逃げるかという
行動を起こさなければ死ぬことになるということがわかる。
祈りは恐怖心克服だけのための行為である。その場からの恐怖がなくなったわけではない。
寧ろ、何ら変わらず恐怖は迫っているのである。
一心に祈る行為はどうだろう、行動せず止まっているではないか。
だから、
祈る行為がいけない行為であることがわかってくるはず。祈らず動くこと!肝要である。
人間は、動くもの、一秒たりとも止まっていない動物なのであるから・・・。