つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

俎板の鯉?

2018-07-12 | Weblog
ラム族の神、サーペント族の神、
この神々の対立は、人間の良心にある。
災害の増大は邪心に傾き反応している。
龍神は、自由をどう配慮するのだろうか?
少なからず、痛みは伴うだろう。
選別の時を迎えている。
天と地が吠える。
人間よ、気づけ!
愛に気づけ!
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

愛情の欠如から起こっている事態

2018-07-10 | Weblog
東から西に移った。
東は東北で西は南西。
次は中央となる。東南西北で終わりである。

愛を忘れたカナリヤは、
悉く
悲しむ。
後悔は先には立たないものであると
百も承知で、
偽善の中に生きている。

兆しを蔑ろにしてきた果であると天は諭す。

大より小にして今度、最大を受ける。
だから、
気が付き「献」に徹せよ。。。

未だ、間に合う。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

駄もんだから・・

2018-07-08 | Weblog
天災の強大化は毎年のことながら激しくなり、
異常事態が通常化してきている。
天災にしても人災にしても、頻繁に見聞きするのは、
何が原因であるかを気に留めることも無く、
ただ自然の驚異に翻弄されるに留める。
人というのは、バカな天才である。
だもんだから、不自由を打ち砕けない。
奴隷という不自由を、足枷、手枷に背負わされ、
隷属にあることに自由を感ずる。
頭のてっぺんにのっけた従属を、巧みに運びこみ、
自由を錯誤するために、自惚れという欲に囚われる。
天才はバカになれるのだが、バカは天才になりたがり、
この錯覚を見抜けない。
神という善は、隈なく救いとることを掲げるが、
自由を統一できずに、助けるものだけを助ける。
「求めよ、さらば開かれん!」を知るものは、
「知る者は言わず、言う者は知らず」をあなたに問う。

この世の道理は、円である。
円周率にして、ゴールに到達することは無いと示し、
円を描いて、ただ不思議を生きる。
不可思議にして不思議なことである。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

魂のあきらめる生き方

2018-07-04 | Weblog
貧しいものと豊かなものとの格差は広がる一方で、
他人の不幸は蜜の味と、人の厭らしが露になってきている。

どうぞ法則の道理を知ってほしい。
法則の道理は、必ず返るであり、糾える縄の如しにもあり、
隈なく公平にしてある。

人を蔑み笑うものは、何れ
人に蔑まされ笑われる。
人を殺めるものは、何れ
人に殺められ、
盗むものは、何れ
盗まれる宿命を背負う。
その宿命は、
蒔いた種であるために、やがて芽が出て花が咲き実を結ぶ。
道理は間違いないために、何もしなければ自然とその果に至る。
が、しかし、育つ過程の花咲く前のどのあたりにでも、
この道理に気が付いて、改め努力して、進んで懺悔の道に歩めば、
枝分かれした茎に綺麗な花が咲き、甘い実を宿す。
それが運命となって、宿命が消えていく。

人生は、花の一生に例えられる。儚いものである。

綺麗でも香らない花もあれば、相応香る花もあれども、
棘があったりして、容易に寄せ付けなかったりもする。
二物を与えられるものはなく、与えられているように見えているものは、
また、相応に反する事柄をも与えられる。
如何なる立ち位置にあっても、驕り高ぶり、傲慢になってはいけない。
幸せと思える立場を認識するものは、一歩間違えば、地獄を与えられやすくなっている。
自身の行為によって。

だから、献の文字を心得て身を戒め、浄めて生きなければならない。
でなければ、魂の行く先は、自らの行為によって予めることができる。

死は、人の恐怖となるものではなく、誰でも辿り着くところである。
そのために、死後の為に喜んでいけるよう、愛憐れみを持ち、
できる限り助け合って生きることである。
その先の道理は明らかである。本来、「諦める」というのである。

だから、「諦」の字は、言葉という文字に、帝王という最高の位を付けている。
諦めて(明らかにして)生きるとする。最高の称賛の文字である。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする