つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

自由に還る

2018-05-09 | Weblog
「ある」が自由からきているために、
生命エネルギーもまた自由である。
だから、わたしたちも本来「自由」である。
自由であることが本質であるために、
苦しいと思うのは、
自由でないために感じる生命エネルギーの異状。
正常な状態になれば、つまり、自由であれば苦しいと思わなくなる。
人間のあるべき正常な状態ということは、自由であるということにある。
生命のあるべき姿は、すべて自由であるということ。

心は生命エネルギー、だから、これと言って形があるものではないから、
捉えどころがないともいえる。
エネルギーであるために、自由で空も飛べる、羽がある訳でもないのに、自由にどこへでも行くことができる。
ある意味別の世界というところへも出かけられる。空想の世界である。つまり、心には
これと言って隔たりは無く、時間も空間も存在しない。時空がないということは、年は取らないし、
いつまでもエネルギッシュなままということにある。そこに、肉体という限りあるもの、無常なものとの差が生じる。
肉体は、エネルギーの回る動きの変化に応じて、その刺激に対応して現れた姿形であるために無常にある。
変わらないものという常住な心と、変化していくという無常にあるものという肉体との差が生じてくるのである。
生命エネルギーという心の完全なる常住に対応するために、無常なる肉体という物質に変換して、心の自由、つまり、完成を得る。
これが、生命エネルギーという存在の本質、自由である。
この宇宙のエネルギーの自由が生んでいる回るという性質、その性質には善悪は無く、
まして、宇宙には生命エネルギーなどに関心は無く慈悲などもない。ただ回るということだけである。
そのために、この宇宙は絶対となっていて、善となって回っているものである。
これがこの宇宙のエネルギーの性質、自由である。この自由を正しく理解するのが、
生命エネルギーの自由であるし、目的である。動くものというのは未完であるということにあり、
エネルギーの自由である絶対善は、ゼロ、動きのない場となっている。それを安泰といい、
平和といい涅槃寂静と譬える。すべてがここに帰すためのエネルギーの存在の動きである。
この理解を間違えると、人の持つ善悪を間違え、悪も善としてしまい、すべてが転倒して地獄のエネルギーが生じる。
これを宇宙は善としてしまう。絶対としてしまい正されることが無くなる。
生命エネルギーが、本来あるべきエネルギーの自由である、善悪のないエネルギーの質に反して沿うことになる。

現生命エネルギー体は、曖昧にあり、特に本来のエネルギーの自由に反した方に傾いている。
隷属にあり、属することを正しいとしている。
属性であることは、エネルギーの自由であるためであるが、
間違って属することは苦に繋がる。
この間違った属性に操作したのが、相対にある世の道理からくる神々である。
善の神と悪の神である。人類を自然から操作した知的生命体エネルギーである。
「先んずば制する」を知的に得、その従属にある世の中を作り上げられている世界(社会)となっている。
ただ、神々もまた、生命エネルギーの途上にあることには、そう人類と変わりはない。
自然によってこの構造社会は崩壊に向かっているようだ。人類誕生以来続けられた不自由は、
自然エネルギーに反しているからである。
いま、神々は慌ててその対立に対応しているが、自然の自由は何者にも変えることはできない。
如何なる力、知恵をもってしても動かし難いことである。
ただ単純に、自然の自由に還るのである。
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「自由」が「あった」

2018-05-09 | Weblog
自然は単純にして見せる。
それが「ありのまま」というものである。
単純に見たものを
ただ理解して決めつけてしまうのが
自分という自然である。
「ただ単に」が「ありのまま」であり「自分」である。
自然は、~にして見せているために、思慮が必要である。
ただ自然に思惑はある訳ではない。思惑があると思うのは「自分」という
勝手にある。「自分という自然」があるということであるために、
自然も亦それと同じということにある。そういうことを踏まえて、
単純に見るものと、そう見ないものとを分別する。
自然は深遠である。計算されていて、答えははっきりと出ないという答えにある。
つまり、うわべというものは、計算の辻褄が合うが、そればかりでうわべがあるというのでもなく、
紆余曲折の中、単純に出会い、複雑に帰す。そうして現れて答えとなっている。
自分が、本来誰で
どこから来てどこへ向かうものなのか知ることがないように、もし、
知ったとして「悟り」・「覚り」というも、一瞬というあるともないともになる。
一瞬でも存在は存在である。「確かにあった」ということである。
そこに「意味」がある。
自然というのは、「ある」ということにある。
宇宙というのは、そういうことにある。
「私たちの」という、つまり、「生命の」という宇宙である。
ただ単に自然という自由、所謂、エネルギーの自由という性質である。
その本質が「ある」ということにある。


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