つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

正・負の正義

2018-02-17 | Weblog
ポジティブに思う。つまり、積極的、肯定的に物事を考える。
そうすれば、万事うまくいくものであると教えられる。
確かに、悲観的な思いよりも楽観的、あるいは、前向きに物事は考えたほうはよいだろう。

私たちは、常に曖昧の中に生きている。確定は一瞬である。そして、すぐさま曖昧に移る。
一瞬は泡沫といい終始である。無の様にして、しかし、確実に有としての実体を感受する。
この実態を幻と捉えるのではなく、実体として認識し、真実は相対にあると識る。
相反する利害はゼロである。そう思い、応変にして万事円満に導く。
共存は共栄として喜怒哀楽を受け寄与する。
みな必要なこととしてある。

宇宙、エネルギーの法則でできている。「有」である。ある意味、「一方」。
生きているものは動いている。動的であるが、円を描いたとき、真円であればその動きが見て取れない。
静と受けても相違はない。実際、感じ受けても、
真円の動きとなれば「動」は感じ受けることはできなくなる。
動いていないと感受する。だから、そこに時空は無い。
エネルギーは同化となっている。宇宙は高速で動いているにもかかわらず、
私たちは静止している場にいると思えている。

ネガティブに思う。つまり、消極的、否定的に物事を考える。
すると、何事もうまくいかないものであると教わる。
確かに、楽観的な思いよりも悲観的、あるいは、後ろ向きに物事は考えないほうがよいだろう。

私たちは、相対の中に生きている。相反する中の同等の力で生きられている。
相対がなければ成り立たない。存在はその意味で必要であり、
ポジティブ、ネガティブな思いも必要であり、利害は思いの応変にして傾く。
憂いを持つのは人の心にある。その憂いは、思いの応変にして「優」とすることができる。
人であるためである。
私たちの宇宙が、「有」という一方にあることを思い、「有」である臨機は、負を正に傾けて応変である。
生きているということの正義である。
人が憂えると書いて「優れる」と読み「優しい」とも読む。
皆意味があって在る。
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不思議な人

2018-02-16 | Weblog
同じ人間でありながら、まったく能力の違いがある。
身体的能力の優れた人。精神的能力の優れた人。
一般の人にはできないこと、難易度の高い物事ができる人がいるのである。
それも、いとも簡単にである。いや、一般の人には想像もできないほどのつらい努力の末、
為し得た物事かもしれない。が、人間技ではないと思えるほど完璧な技をもち、
いつでも行って見せられる人がいるのである。
また、本能的にできる人もいることは事実である。
それも、練習など必要としないでである。
姿形は人間であるが、根本性質が違う、能力自体が非常に高い段階にある生物、
いや、生命体なのではないかと思われる節もある。或いは、人間自体が可能性という自由を
持つものであるために、生命の神秘に於いての進化的変異が現れた人というのがいるのであろう。
自然の持つ自由が作り出したすべての可能性、量子的なとする波長エネルギーの、
一部な同調エネルギーの姿形化、一部であるための姿形化としてある。
菩薩の格にあるとすればわかりやすいエネルギーである。辿り着くものという過程、途上、途中である。
凡そ、経験値の浅い人には師である。あらゆる面で先生である。が、
途であるために精査する部分はあり、よって超えられることもあり得る。

思議の不要な人である。
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自ずと示される

2018-02-15 | Weblog
物資豊かになって人の心貧しく、とても生き辛い社会感を受ける。
ほぼ毎日のように鉄道人身事故を耳にする。報道は、鉄道時刻の乱れを気にかけての、
事務的な伝達事項に留まる。そうして毎日のありきたりとなって時が過ぎていく。
日本社会の自殺者は年間三万人弱、数年前までは三万人を超えていたものだから、
少しは減ったのだろうと思いきや、そうではないようだ。それどころか、
年間十五万人ほどもいるようだ。
人の浅ましさは、時の流れの真実を化して伝えたりする。
現象は化象となって、だから、見たもの聞いたものを信じてはならない。
報道は現象を操る。伝達というように伝うのである。
負の報道は、否定的、消極的波長の繋がりとなって、同じ負の現象が起こる。
善い意味での操作であれば方便であるが、策略をもってしてあれば害となり、
壊滅的打撃を受ける。
狡賢さは偽善をもって信仰心を煽る。
智者は諭す。信仰するものは何もない。ただ自分を信じろ、と。
賢者は思う。まことに自分は愚者であると。
すれば、謙虚にて自ずと正しき道標が見えてくる。

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唯なるもの

2018-02-14 | Weblog
大いなるもの、それも一部に過ぎない。
唯なるものの一部である。
大いに大いなるものの計らいをただ感受する。
その意識が法則であるなら、唯なる自由を識るだけである。
その識別について認識した自由を、応変にして操る。
ただ我が意識として。

この宇宙の道理も、たまたまにしての存在である。
だから、
計らいがあるように見えているだけで、法則が違えば道理も異なる。
私達には、この宇宙だけのことである。
私達には、唯一の場ということ。
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大いなるもの

2018-02-13 | Weblog
「百千万劫難遭遇」であるのがこの宇宙である。
唯一という。
この宇宙は存在に満たされている。
独自である。
ありとあらゆる物事が可能としてある。
太極は対極にしてあり、陰陽と相生・相剋で自然と成っている。
この宇宙の道理である。
当然ながら、ブラックホールを介してホワイトホールに繋がり、
法則の異なった宇宙が広がる。
物質と反物質の世界。重力と反重力。
有と無は、有にして唯一である。
だから、相反にしてある。
たとえてわかりやすくするために
絶対を語れば、「有」に「無」は不可思議」なのである。
三つ巴で「有」を覚り、この宇宙を識る。
感受するには、唯々謙虚、謙虚、謙虚にあるべきである。
生命が生命であるべき方便である。
それは、小さな一部であり、一事が万事に繋がっていると
知れるだけである。一部始終である。


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常識を持たない

2018-02-12 | Weblog
私達は、「無」というものを考える必要はない。
存在には「無」はないのだから。
無いのだから考えることができない。いくら考えても、
その答えは出てはこない。
つまり、
無いから存在にして私達がいるし、すべてが存在の為すがままということである。
しかし、それは難解として私達の前に立ちはだかるものである。
その可不可は、私たち存在の心の如何にある。
この宇宙がエネルギーでできているということを覚り、
独自にしてこの状態を作り上げているということを理解するなら、無駄な思いは無くなる。
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今は未だ及ばざるもの

2018-02-09 | Weblog
善神悪神にしても、神々はとても優れている。
宇宙の在り方の起源を知るものであり、理解されている。
その理解は、心の自由にあると神々が伝えても、
知恵の働きがないものには理解ができない。
それには、未だという時間が必要であるが、宇宙的感覚にしては、
明日には理解されるであろうことである。
はなはだ自由というのは理解しがたいものである。自由が故にである。
自らに由ると書かれることに思いが注がれたなら、何ら難しいことでもなくなるのだが・・。
難しくするのは自身を束縛するためである。
精神は自由であることを覚るなら、解決は自ずと現れてくると伝える。
あなたは、今でも時々、空を飛ぶ夢を見ることがあるか?
自身の体で、鳥のように大空を舞う、例えば、孫悟空の漫画に出てくる彼らは、
武空術を使い自在に空を飛ぶ、翼もないのに、である。
知的生命には、心の進化がある。高度にあればあるほど、精神を研ぎ澄ますことができる。
それは、ありとあらゆるものが可能にしてある。存在というものは、そういうことにある。
だから、無い、或いはできないとする不可能は、存在にはない。
できないとする存在としてしまうことも自由であるが、本来、存在に「無」はない。
存在なのだから。
自然は、ありとあらゆることを示し申すが、理解し難いのは、今はまだ仕方のないことであるとする。
「及ばざるは過ぎたるより勝れる」であるのがこの宇宙の道理にある。
宇宙の時間から計れば、人の生命の時間などあまりに刹那的である。
途方もなく長い時間を見せられて生きているが、人知計り知れない世界にいるのは、
存在の意味が人の精神にあるためである。だから、生命もまた永遠をわたり、劫の時も
必然歩むものである。ただ永遠の時を涅槃寂静とするための、今を生きている。
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驚愕、姿を現し始める

2018-02-08 | Weblog
ん~、不穏である。
2018年5~8月頃、いよいよ怪しくなってきた。
2月11日は何もないことを願う。「哀」は秘密裏に暗躍して
駆け引きがそれなりに奏すればよいのだが、鬼気迫る様相にある。
表向きは平穏にして装われながら、転換期は自然と相まって、
刻々と人の身を脅かす。
人類の種にして、互いに貶めあい、差別的であること顕著となり、
いささかも救われる要素を失う。
小として世間の所為、大にして世界の所為重ね合わさり、
貪欲にして核に滅ぶさまを見る。
僅かながら生きながらうもの未来に繋ぐ。
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最終の兆し現る

2018-02-07 | Weblog
人間が人間を虐げる。
生命の最低水準である。

一事が万事に繋がり、自然界の異変となる。
人々、ここ長く生きて初めての困り事に遭遇と口々に言う。
ほとばしる困りごとにただ困惑するばかり。
それこそ、自業自得に思いはよらず、謙虚たることなし。
自然はその心に反応し、ますます猛威を振るう。
今は、点々に場を変えてあるも、直に総じて起こる。
さて、金を捨てて物を分かち合う方向性に命は繋ぐ。
自然は、愛を求める。最終の兆しであることに気づけと戒める。
金に頼るな、愛に頼れと戒める。
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転換期にある世

2018-02-06 | Weblog
隷属にある社会、
十中八九金に束縛されている。
よくもここまで縛りつけたものだと感心する。
文明社会は、人類奴隷化に基づいた物質的技術文明である。
人間の精神にある欲望、悪い意味での欲に付け込んだ操作である。
生存という物質的エネルギーの確保に惑わされて、精神をも操られて、
得体の知れないものに従属させられている。
悪知恵は、よろしく張り巡らされてがんじがらめである。
経済は、経世済民を離れて独裁的政治となり、私利私欲が常で、
これが当たり前であるために、悪知恵の働く者の言いなり社会となっている。
毎日毎日、従順にして労働に勤しみ、家に帰ってきて催眠にあるテレビを見て一日を終える。
これを幸せと思いさせられて、隷属にあることを、鎖につながれた犬の喜びに例える。
人間という貪欲の塊にある者の悪しき知恵に彩られて、生かさず殺さずの生活に溺れさせられての一生。
アメとムチはよく図られ、浸透しきって、
苦しみから喜びが得られることで満足。それも、刹那にしての喜びによしとする。
人の常識というのは、はなはだ厄介なものである。
隈なく社会に張り巡らされた悪しき知恵の制御は、極まって一旦の浄化にあう。
諸々が、移りゆくものであるために・・。
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