つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

精物

2016-11-19 | Weblog
エネルギーの法則はその自由によっての存在である。
この自由という言葉の意味をよく理解できなければ、
何を語られても意味が分からない。
おそらく、多くはちんぷんかんぷんにして通り過ぎてしまうはずである。
天才と呼ばれた人達は、確かにそう認められるまでは、気違いやら、偏屈者、
つまり、変わり者呼ばわりされるものである。
多くの人達は敬遠して通る。
多くの人達と違って巨額を稼ぐものはまた、‘まさか’の坂を上り下りする。
そのために、頂点と底辺を見る。上下しかないもので、過程の記憶は瞬く間で、
朧気となる。
‘まさか’の坂しか通らない。二つに一つだけの世界観で生きる。
底辺には、宝の自由が転がっていて、宝を開けるものは、
常識を覆した思いがなければならない。
石橋を叩いて渡るような人には、非常識は見えないものである。
一念岩をも通すという心念がなければならない。だからと言って、
それは卓越した強靭な精神力から得られるものでもなく、
ごく普通に信心である。何かを信じる心が揺るぎなければ得られる念いである。
底辺は底辺と言う様に、三角形の頂点に対する言葉であるために、頂点に繋がっている。
エネルギーは円運動の自由である。そのために、上下は同等である。
あるとするもないとするも、その隔たりは思い一つによる。
自由だからである。

優れたものは、そうあるものではない。
金や銀、ダイヤなどを見てもわかるように、
そうあるものではない。
鉱物にしても生物にしても、優れたものは希にしてあるものである。
そして、それに気づくものもまた希なのである。
ただ単に、何でもないものに紛れていてあるが、特に頑なに同調を見ないものであるために、
変にして気づくものは気づく。
そして、自然に、
綺麗なものは綺麗なものに集まり、穢いものはきたないものに集まるものである。
綺麗なものは精にして、優れたものを選り分ける。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする