つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

貧相宝

2015-01-16 | Weblog
一つこんなことを感受。
現世裕福を享受しているなら、来世貧乏を受ける。
幸福と不幸は双方をもって有無と知る。
二重螺旋構造で成る人の運命であるが、その立場それぞれ幾多において、
自由が故に適に浄化にあるなら、本来にしてある十二の螺旋復元に向かい、
仏陀の資質となる。それは、幸不幸双方無にして復元に値する。
宿命というのは性善にして人の持つエネルギーである。
とにもかくにも貧乏は尽くし難いものである。
宝となるのもまた自由である。
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今にして得る

2015-01-15 | Weblog
年明けしてからもう半月過ぎた。
おぎゃぁと生まれて早還暦となった。
年月の速さ瞬く間と感慨深く無量に尽きる。
もはや死ぬ一方に寄り、ひたすらに生きる。
知恵をもってして仏を知る。
そこに、人の格たる資質などなく、
臆すことなど何もない。
知恵は知識を悉く見抜き上回る。
あなたは、なんのために生きたかと問いて、その優劣を知る。
雄弁に語りはすれど、生きる的が外れて、ただそれに尽きている。
途方もなくを気の毒と思うにとどまる。
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幸福

2015-01-13 | Weblog
貧乏の中から愛を学ぶ。
身銭を切って百千万の愛を知る。
この上ない富を知る。
本物を知る。
貧乏という学校。

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フリーエネルギー

2015-01-11 | Weblog
もし、自分には到底できないことや、あるいは、
人間として能力を超えていると思われることでもできる人を神の賜といい崇める。
また、神そのものとして畏怖し、退いて見つめる。
あの人はカリスマ、神の化身だと勝手に思い込むのである。

未知にして無知にあり、驚異の能力をいとも簡単に見せつけるものがいるなら、
そう思い込むのもわからないではない。

優れた能力は、或は時間の中にあり、時を経て培われるものでもあり、
経験というものの中で知り得ることへの先見の操りにある。
それを分別として受用する、刺激に対しての反応である。
反応の速さ、その応用が瞬時であればやぶれることはない。
それは当初よりあるものではなく、積み重ねて培われたとするだけのことである。

この宇宙の法則はエネルギーの法則であり、その質、繰り返すという廻りにある。
何度も何度もとめどなく繰り返すことによって絶対となり正しいとなる。
これが善悪のないということである。元に戻るためにゼロとなり浄化となっている。
だから、絶対善となって回っている。ゆえに、正しい浄化とならなければ、善悪顛倒となってしまう。
善が悪であり悪が善となり、絶対悪となってしまう。それが正義となるのである。

法が諸々の法則であり、
性が自由であるために、何ものにも勝るという無上にある。だから、唯一であり、
他に較べるものがない。
この自由をよく知り、溶け込めばというか身に備え正しく操れば、如何なるものも障りとなることはない。
環状体状であるための循環にして、無尽蔵となっている。
このエネルギーによって生命も作られているものであるために、
生命には死がなく、肉体はただ生滅をくりかえす。
その生滅の繰り返しが、生命エネルギーの進化と退化を促している。
進化は良い浄化にあり、退化は間違った浄化にある。それは、
肉体に宿った生命エネルギー、心に従ったしぐさにある。無知にして誤った行為、それを業といい、
業の報いの現象となる。それはまた、必定にあるが不定にして感じ取れたりもする。
心の在り方、そして、それに従った行為によってである。

進化、進歩は理に適う為に嬉々としてあり、退化、後退は理に反して摩擦となり苦になる。
どちらを選択するかは各々の自由である。それは、エネルギーが自由であるためである。

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那辺の業

2015-01-10 | Weblog
人それぞれである。
一様にして作られているために同様にしてあるが、
同一ということでもない。

同じ人間でありながら、様々な性格を持つ。
気質の荒い者、温厚な者、邪悪な者、善良な者、
機敏な者、鈍くさいとされる者等々。
ただ皆自分を中心に善を思う。
そのために、
議論しても良い果は生まれない。

それぞれの場面に於いて得られた刺激の反応である為に、
偏に衆縁和合にしてある。

空間の因縁、時間の因縁、原因と結果という因果応報にして。

これはまた、必定と不定にあるが、必定は軽減を持ち、
不定のようにして感じられるものである。
偏に、自身の思い、行為に委ねられる。
必定としてあることには違いない。
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火宅

2015-01-08 | Weblog
私たちは火宅の人である。
憐れにも疑う事に従って生きていて、
そのために、
絶えず争いの中にいる。だけど、
大丈夫を疑わない。
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心経の功徳

2015-01-07 | Weblog
般若心経は、
正しく解釈さえできれば自然と身についてくる。
誰に教え導かれなくても分別ができていくために、
不安ということがさしてない。
無上の師である。
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2015-01-06 | Weblog
空を飛ぶものと地を這うものとの違いはどこにある?
どんなに高速に這いずり回っても地を這うものは地を這うものだけに遠くへはいけない。
高速に過ぎないものだから。

空を飛ぶもの、その速さ光速にして瞬時遥かを超える。

違いは羽を持つことにある。気という羽である。
英知羽ばたいて無量を得る。ゼロである。
何の隔たりももたない。時空を超えてある。
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如来というもの

2015-01-04 | Weblog
人もまた自然によって作られた産物である。
先生という文字に、
生じたとすることが何よりも先だったためにという進化によって、
後世に生じてくるものの先頭に立つ。

自然というものに善悪は無く、ただ廻るものとしてあるための繰り返しによって、
正義となる。
円を描くために元に戻るという意味で浄化となっていて、その変化は進むという運動、進化であるが故に
戻りながら進むという渦巻き状である。生命もまた、この渦巻き状のエネルギーによってはかられている。
そのスピードは光にしてあり、高速で動いているが、エネルギー全体の動きである為に、内容は
動いていながら静止状態である。
どれもこれも自然にしてあるものは、微なるものから大なるものまで、一つの容の様を呈していて動いているのである。
たとえていうならば、リンゴのような形を成していて、常に中心から相対して上下左右に伸び広がり、また集束してと繰り返している。
収縮している様はまさに生きているもの、エネルギーである。
その変化の刺激を受けて、対応したエネルギーの容として各現象となっている。

真っ先に生まれたものの進化は、よく反応したものとしないものに分かれるが、
よく反応したものは、その道理を熟知していき、あらゆるものに対応する能力を身に付ける。が、
どんなに身に付けても、完全無欠という溶け込む状態にはならない。つまり、限りなくゼロ地点に近づけはすれども、
ただ限りなくである。それはまたエネルギーそのものが自由であるためである。
それは、全体を司るものと、個々を司るものという自由にしてあるために、個々にして成り立っている全体であるためである。
なかなか正確に言い表せないものであるために、敢えて言うなら「個々にして生きている」という言葉が当てはまる。

原始的なもの、後進的と先進的なものの開きに於いて、その能力格差絶大であれば、
原始的なものは先進的なものに支配されてしまう。その支配がまだ発展途上にして善悪なものであれば、
善悪なものに左右されてしまう。
地球人が、恐る恐る宇宙に飛び出し始めて、とある星々に探索に出かける様に、そして、それは人類に利となるためのものであるように、
地球より遙かに先進した知的生命が、しかし、まだ発展途上であるが故に善悪を持ち、自利にして行動しているものであるなら、
その自利に支配されてしまう。その知的生命よりまた遙かに進化していて、善悪を超えてある生命があり、この宇宙の根本法則である浄化を
正しく持っているとすれば、闇雲に支配しようとする者の力を阻止するものである。そこに、慈悲の慈があり、悲を葬り去るものである。
それを、いまだ法則を理解していない人類は、一様に神とするが、真理は更にそれを超えてあり、神の有り無しを明示する。
ただ漫然にしてある法則に、正しく浄化されてあるか否かを訓えるのである。





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りんごの容

2015-01-03 | Weblog
日時たんたんとただ過ぎていく。
明けては暮れて明けては暮れてと繰り返していく。
♪・・終わりなき世のめでたさに松竹立てて角もとに祝う今日こそ楽しけれ・♪と、
明日が来ることへの信頼に祝うのである。
この絶対性をもっているために人は生きていられる。
明日が信じられるために、生命は意気揚々生きていけるのである。
この絶対性がエネルギーの法則であり、円運動であるための自由によるものである。
このエネルギーの自由によって生命は作られ、永遠の存在となっている。
回る運動である為に環状体状となっていて、常に一定に保たれている。
輪となっている方向性は、常に中心というゼロ地点からもたらされて一方は上昇、
右に折れ下降し、左に折れて中心へと向かう。もう一方は下降、
左に折れ上昇し、右に折れて中心へと向かう。そうして繋がっていくために止まることが無く繰り返す。
減りもしないし増えもしない、不増不減の法則となっている。
中心はゼロ地点である為に、何もかもが綺麗な状態となる。これが浄化である。
それは、虚ろで膨らんでいる様としてある。
この循環性気質は相対であるが、正負は同等で同様にしてあるもので善悪は無い。
エネルギーが自由である為に、何もかもが自由にしてあるもので、生命の運命も宿命も
自由によってなっている。
こんなはずではないとして生きる人の世は、
このエネルギーに無知であるための誤りから起こっている。
不幸せとして生きる多くの人達は、一握りの人の突出した欲望、
利己的から支配されているための不自由によって引き起こされていて、
それはまた、誤った浄化の繰り返しで正当化している。
いわゆるそれは地獄という様相の世界である。
その世界から抜け出すには、ただ自由にしてあるエネルギー世界を正しく知り、
正しく取り出して使う事にある。
それは無尽蔵にしてあるもので、また、浄化という質にして綺麗なもの、不浄を生むことはない。
無尽蔵にしてあるのは環状体状となっているためである。

どのようにして取り出すのかは、智恵である。「終わりなき世のめでたさに・・」と謳われた意味を
智恵で読み取り、つまり、今まで生きてきた日常のありきたりな風景を、その経験によって理解する事、
繰り返すことの正当性から現れる呪縛を知り、分別することである。これはよくない、これはよい、と。
して、この容を科学にして応用するのである。智恵にして応用できていく。
反発と引き合い、相対にして辻褄が合うものである。

是がエネルギーである。循環にあるために是として説いている。
諸々の法則となっている。それが自由としてある質である。
自由である為に不自由を作ってはならない。
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