この世というのは仮の世である。
生命が本当に生きる世界は死後の世界である。
仮の世において何をして生きたか?その果が死後の世界となるが、
正しい生き様となっていなければ、何度も何度も生死を繰り返すことになる。
それは、人として生き、人としての行為をしていくためで、
それが縁となって永遠に人としての生死を繰り返していく。
是(法)が円運動となって無くならないものとなっているためである。
是はエネルギーの法則である。
その法則によって作られている世界であるために、
生命も無くなることのないものとなっているのである。
生命もエネルギーであるためである。
エネルギーというのは自由をもってその性質となっている。
そのために、その自由に対応したエネルギー体となって様々となって現れてくる。
その場(変化という刺激)に応じてかくかく生じてくるのである。
人はとかくこの世が真実の世界だとして今生の幸せを望むが、
人は死んでも魂、つまり、心という気(生命エネルギー)は死という事が無い。
エネルギーが滅してしまうという事が無い為に、人の死後こそ生命の真実の世界となっている。
人が人として行為をしていくために、人として生じてくるもので、
人としての行為をしなければ、人として生じてくることは無い。
人として生まれながら、無知にして人に非ずという行為をしてしまえば、
その行為の縁によって生じる生命体となっていく。六道であるが、六道の内にある以上は
その行為によって輪廻となっている。
輪廻はただ苦しみに他ならない。輪廻から解脱してこそ生命エネルギーの真実の世界が現れてくる。
六道より離れられるのである。
苦から離れた世界となるために、それこそ生命エネルギーの求める世界、安住の世界である。
人の真実行き着く世界であり、生きていく目的である。
人が、なぜ生きる?というのは、その真実の世界をつかめるまで輪廻していくのである。
輪廻はただ苦に他ならない為に、早く無知を破り、輪廻から離れる行為をしていくことが人生となっているものである。
そのためにこの世の生まれは、修行であり、生命の仮の世として存在となっているものである。
だから、この世での人の行為はすべて生命エネルギーの浄化の為の行為となっているもので、
それが、誤った浄化の行為として生きていれば、永遠に苦しみの世を往ったり来たりするだけである。
人生というのは無駄にしてあるものではないのだが、ただただ無駄に生きていれば、
苦しみから逃れられることは無いのである。無駄に続いていくだけとなる。
気づくことである。
是(法)が円運動であり、そのために、無くなることのないものとなって、
永遠に回っているという事を。繋がっている、繋がっていくという事に気づくなら、
何をして何をしないという事が見えてくるはずである。してはよいことと、してはいけないことが見えてくるはずである。
また、明日が来るように、今日と同じことを繰り返すように、
行って来ますと言い、ただ今戻りましたと帰ってくるように、
すべてが是にして、円運動となっているのである。