つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

我と戦う

2014-02-20 | Weblog
競い合うもの、
敵対するものを我の外に認めれば、
周りを気にして自分を見失う。
制御不能となり、心にもない羽目になる。

敵は我が内にありてただ自分を思えば、
打ちのめす算段も付く。
何をどうすべきか、内なる心に気を配る。
すれば、気が私に付くために
周りにのみ込まれることもなく最善を尽くせる。
常に自分独りとの戦いである。
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時の流れに

2014-02-19 | Weblog
切磋琢磨して時が流れ
高度な科学技術を得る。
今はまだできない、知らない未知の技術が、
努力によって得られる。
光に乗って瞬時が叶う。
光を操れば時を越えられる。
心が時空をもたないように。
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ひとりぼっち

2014-02-18 | Weblog
誰に師事することなくただ自然に学ぶ。
独り法師である。
智慧が身に付いて正しい判断となる。
臨機応変、
思議のいらないこととなる、不思議である。
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仮の世にして、その生き様を・・

2014-02-17 | Weblog
この世というのは仮の世である。
生命が本当に生きる世界は死後の世界である。
仮の世において何をして生きたか?その果が死後の世界となるが、
正しい生き様となっていなければ、何度も何度も生死を繰り返すことになる。
それは、人として生き、人としての行為をしていくためで、
それが縁となって永遠に人としての生死を繰り返していく。
是(法)が円運動となって無くならないものとなっているためである。
是はエネルギーの法則である。
その法則によって作られている世界であるために、
生命も無くなることのないものとなっているのである。
生命もエネルギーであるためである。
エネルギーというのは自由をもってその性質となっている。
そのために、その自由に対応したエネルギー体となって様々となって現れてくる。
その場(変化という刺激)に応じてかくかく生じてくるのである。

人はとかくこの世が真実の世界だとして今生の幸せを望むが、
人は死んでも魂、つまり、心という気(生命エネルギー)は死という事が無い。
エネルギーが滅してしまうという事が無い為に、人の死後こそ生命の真実の世界となっている。
人が人として行為をしていくために、人として生じてくるもので、
人としての行為をしなければ、人として生じてくることは無い。

人として生まれながら、無知にして人に非ずという行為をしてしまえば、
その行為の縁によって生じる生命体となっていく。六道であるが、六道の内にある以上は
その行為によって輪廻となっている。
輪廻はただ苦しみに他ならない。輪廻から解脱してこそ生命エネルギーの真実の世界が現れてくる。
六道より離れられるのである。
苦から離れた世界となるために、それこそ生命エネルギーの求める世界、安住の世界である。
人の真実行き着く世界であり、生きていく目的である。

人が、なぜ生きる?というのは、その真実の世界をつかめるまで輪廻していくのである。
輪廻はただ苦に他ならない為に、早く無知を破り、輪廻から離れる行為をしていくことが人生となっているものである。
そのためにこの世の生まれは、修行であり、生命の仮の世として存在となっているものである。
だから、この世での人の行為はすべて生命エネルギーの浄化の為の行為となっているもので、
それが、誤った浄化の行為として生きていれば、永遠に苦しみの世を往ったり来たりするだけである。
人生というのは無駄にしてあるものではないのだが、ただただ無駄に生きていれば、
苦しみから逃れられることは無いのである。無駄に続いていくだけとなる。

気づくことである。

是(法)が円運動であり、そのために、無くなることのないものとなって、
永遠に回っているという事を。繋がっている、繋がっていくという事に気づくなら、
何をして何をしないという事が見えてくるはずである。してはよいことと、してはいけないことが見えてくるはずである。

また、明日が来るように、今日と同じことを繰り返すように、
行って来ますと言い、ただ今戻りましたと帰ってくるように、
すべてが是にして、円運動となっているのである。
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慈と悲

2014-02-16 | Weblog
俗世、心無い人は大勢いる。
どうしてこんなにも無頓着、無神経、浅ましくあるものなのかとただただ驚く。
そういう人は何かにつけて自分に都合よくはからい生きているために、
そこそこにズルによっての好い思いをする。
他から見れば悪い企みであるが、それによってすこぶる好い思いをするのである。
不条理にも世の中というのは、悪人でもよい思いをするものだ。

仏様のいうところの下品下生という生き様であろうか、
救うことのできない様である。
他を欺き好い思いをしていてもそれはこの世の事で、
終には(この世の寿命が来てあの世に赴くとき)相応にしてそれ以上に生き様の報いを受ける。
悪いことには悪い報いというものである。
悪人が好い思いをするという事は死後の世界では絶対ない。あの世というところはそういうところである。
善は善、悪は悪、曖昧というのが無くきっぱり分かれているところである。
不条理にもという事が無い世界である。100%審判を受ける。
悪い心で生きてきた人は、死後の事がただただ恐ろしい限りである。
善いか悪いか二つに一つ、中間ということは無いために、
この世での生き様を正せと訓えられる。
死後の世界は法則の絶対世界であるために、ただ慈と悲にわかれ、
慈悲となることの無い世界である。
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気のあり方

2014-02-15 | Weblog
時はただ過ぎ去るのみである。
それは齢老いるごとに早まり、
それこそ瞬く間という言い方が当てはまるように思われてくる。
この季節、雨、雪、風などに「暴」と付く日が多く思われ、観測以来初めてとか、
3、40年、或は70数年ぶりとかという暴れぶりで、地域ごとに耐寒季節となっている。
自然はよく辻褄が合い、夏が特に暑ければ向かう冬もまた極寒となって迎える。
相対して平坦であり平等?というようなはからいで、
合わせて偏りが無く円満となって廻っている。
その地域を見て、‘気の毒な’と思えども、対岸の火事として捉え過ぎていくのが俗世人の世である。
そのために、その場に居合わせた人はただ気の毒であるに過ぎない。
身に降りかかった因縁は斯く斯く云々でそれぞれの報いとして、
気の毒という運命共同体にある悲運幸運に分けられる。


とかく都会という普段便利にして暮らしている処では、自然の猛威にはことごとく弱い。
混乱して困った困ったと思案する事ばかりであるが、何せ自然の為すことであるために、
誰も文句は言わずただ従うだけである。その暴挙に戸惑うばかりである。
なぜ暴挙となるのか、その‘因’の深奥に気の回らすことができないために、
防御もできず避けられないものとなっている。
されるがままという従属的地位の内にある。
従うものと沿うものとは異なり、従うものというのは隷属に他ならない。
隷属は苦の何ものでもない。自由が奪われた状態であるから。
もし、沿うものとしてあれば、自由があり、その気の傾きによって因縁となるために、
気がしっかりしたものであれば深遠にして深奥に入り込んでいける。
して、自然の暴挙、その因縁を探り得て、悉く治まりを得る。
正しい手立てが講じられるためである。それは案外、
‘灯台下暗し’、‘チルチルミチル青い鳥’の様である。
それは、単純にして深遠。
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神の様

2014-02-13 | Weblog
神様として自然を充てる。
自然は示し申す。
それは、
予めて、つまり、前以ってということにある。
して、
示し申された事を
申し示されたと受け取るなら、
何事も大事に至ることは無い。

示し申されたことを、
示し申されたとしてしまうだけなら、
何事も直、示し申され、
まさかを思い知らされる。

謙虚にして、謙虚に捉えて事は穏便にはかられるのであるが・・・。
見えないものを智慧をもって見るまでに至っていないと、
示し申された謎解きができないままである。

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学習する

2014-02-12 | Weblog
往々にして
人、
喉元過ぎれば熱さ忘れる。
すると、
それは必ず思い出させられる事態となる。
して、大事に至るのである。

もし、謙虚に受け止め、けっして忘れることが無く、
再びとしていなければ、大事を受ける事態にはなって行かない。

苦い目に遭っても、不幸中の幸いとしてあるなら、
謙虚にしてもう触らないことである。学習である。

物事は、前もってを示し、突然一気にはという事はないもので、
突然と思うのは、気が付かないでいる落ち度である。
侮り、驕りという落ち度を持つためである。怖いもの知らずという
無知から、謙虚を欠くための様子。
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行く道

2014-02-11 | Weblog
年老いた人、老人。
80,90になっても比較的ピンピンしていて、介護を受けることなく
自分の事は自分ででき、あれこれとやることがあり動き回れる人、
よく人を案じて、いつになったら安心安堵となれるやらと嘆くも
チルチルミチル青い鳥、幸せであることに気づかない。

一日中何もすることが無くただボウーとしていて、自分の肉体を持て余してながらも、
何かにつけて他人の世話になり生きながらえている人、暇を埋めることも無く、
貴重な時間の無駄遣いに勤しみ、論うことばかりを甚だしくて
憐れにさえ思う。

あれもやらねば、これもせねばと生き急ぐも、
憐れにして幸せにあるものである。

人というもの、花に譬えてその通り、
あまりに短く色艶も褪せて
どれもこれも見栄えなく、憐れにしてただ終わる。

長生きにして、ただ倖せという事は無く、
不幸にして早死にという事も無い人の世である。
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2014-02-07 | Weblog
物価はすぐ上がり給料はなかなか上がらない。
景気不景気というものはそんなに難しくあるわけではない。
給料が上がり物価が上がらなければ景気は良くなる。
単純にして
無い袖は振れず、あれば振れるものである。
もちろんあっても振らない人が大勢いる。
格差を好み、自分は他人とは違う偉い身分にあるものだとして生きている人、
俗世そんなものである。慢と欲にまみれた人の集まりである。
まったくもって‘悟’ということを意味しない。
なぜ生きる?生きている?生じてくる?ということに意味せず、
ひたすら今日の飯、明日の飯を案じ生きている。
ほとんどは畜生と変わらない世界である。
火宅の人といわれるものであろうか。
‘悟’を意味せず生きているために、何度も何度も生まれ変わって一切の苦を味わう。
「今度生まれてくるときには…」などと生じてくることを望むが、
‘悟’を意味しないものには、輪廻は苦しみのなにものでもない。
‘悟’を得れば生じてくることは望まなくなるし、また、その行いによって
生じる縁が無くなっていくものである。
苦は、エネルギーの本質にはないものであるから、
苦を望む人はいなくて道理なのである。
‘悟’を意味しないものは行為の誤となって、エネルギーの質との摩擦となり、
その摩擦が苦となっている。
何でも物事はスムーズにいってはかどるといい、事無きを得て円満というのである。
それが楽という事である。
摩擦はその逆であるが、摩はなでさするとことであり、擦は勢いよくこすることであり、
つまり、みがくということでもあるために、
苦を摩って擦り除いていくものとしていれば、苦は楽に転じていく。
みがくための行為としての摩擦としていけばよいのである。
それが人生、‘悟’を意味することである。
誰のためにあるのではない、自分の為にある行為である。
無知で生まれて、何も意味とせず生きているものであるために、
あらゆることに摩擦となって生きている。それ(無知なる人生)を夜に例えて、夜を三つの区分に分け、
幼年、青年、老年期のうちの一つでも(悟)目覚めてあるようにと先人たちは訓える。

摩擦をただ苦とするも、楽に転じさせるのもその人の人生である。


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