つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

・・・なぜ、なぜ?

2013-03-11 | Weblog
・・・経済優先社会は、
拝金主義的世の中である。確かにお金をかければ、ほとんどのものが
叶えられる世の中である。
お金をかけてもどうすることもできないことは多々あるものであるが、
それでも、ある程度は命さえも延命することは可能である。
研究、開発に多額のお金がかかるために、お金をかければ研究、開発が早く進み、
望んだものが作られやすい。願いがかないやすい。だから、
「お金さえあれば・・」と安楽的ではあるがそう思うのもわかる。
物資豊かになればなるほど、少なからず
お金によって幸せになり、また、幸せを与えてあげられるものであるから。だから、
お金お金とお金に執着する現代である。「何か違うなぁ」と思えども、現実にはお金が
幸せへの即効性を持つ。

お金のある幸せというのは一時的なもの、あるいは、仮面的なもので、
危ういものである。「本当の、本物のという幸福」の擬きである。
そのために、お金が無いために惑わされて苦しみを味わい、
お金があるために醜くさにあい苦しみを味わう。有無同然である。

そう知って、経済優先主義から少しずつでも離れていって、
無欲に生きることである。無益にして奉仕に努め、
「本当、本物のという幸福」に有益となるものである。
俗世、人の思いは、そうは知り得ないものがほとんどであるために、
簡単なことであっても難しい。

貧困という不便から智慧が生まれて便利をつくる。
富裕から便利をつくり不便が生まれる。
不幸せなものは幸せに向かうが、幸せなものは不幸に向かう。
好きな人と一緒になり幸せを思えど、必ず別れる時が来る。そのように、
愛する者ができれば愛するもので悩み、いなければいないで悩む。
家があれば家で悩み、子があれば子で悩む。
財があれば財で悩み、無ければ無いでまた悩む。

何事も長くは続かないものだから、便利にあやかるものは不便を強いられることになるのである。

さてさて、これが俗世、人の世で、
一切が皆苦しい事ばかりと知ることである。
だから、もうこの世に生まれるな、輪廻を絶てと仏は訓える。
「なぜ、生まれるか?」それは、死ぬためである。
生は死を絶対条件にしてある。それは、死後の世界が生命の真の世界だからである。
生命の安住する世界が人の死後の世界だからである。
生命は心でありエネルギーである。想念で作られている世界である。
その想念の世界、死後の世界を幸せな世界とするために、
人の一生となっている。正しい想念としていかなければ、
地獄をつくってしまい、そこに逝くことになる。それは、死後の世界が法則の絶対世界であるために、
変化の無い世界となっていて、永遠に苦しむ事から抜け出せなくなってしまう。
そのため、地獄をつくってそこへ逝かないよう、正しい行為となるよう生きるのである。
そこに無知であるために、何度も生まれ変わって苦しみを味わう。いわば、この世も一つの地獄、
無知であるための修行という苦しみの場。
だから、生まれてくるのは無知であるからと言える。でも、生まれてこれたのだから、
無知をなくすことができる機会を与えられたことでもある。その機会を的確にとらえて、
人として正しい行為をして生きられたなら、真理に副い輪廻を離れられる。この世という一つの地獄から抜け出せる。
して、生命の安住の地に赴く。
なぜ生まれるか、なぜ生きるか?は無智によるためであり、死後の世界の為である。
無知を破るために知恵を付けて生き、正しい行為、正しい浄化の行為として生きて、
死が無い生命のためとなっている。
苦しみあるこの世によって、楽である世を知ることができる。
苦楽がこの世の道理である。苦楽を味わうのは正しく真理を悟るため。だから、
苦楽は決して無駄にあるのではないとわかるはずである。
法則は絶対の世界である。永遠の世界であるために、そこに行ったら永遠である。
苦楽が完全に別々にある世界でもあり、それを選択するのも自由である。
法の自由であるから、人の自由でもある。
だから、人は死ぬために生まれ、生きるという。
生命に死が無いためである。それは、法則が無くならないためである。
コメント
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