つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

‘心の思い’で

2012-11-23 | Weblog
テレビでよく見ていた人達、少し見ていないなぁと思っていたら、
死んでしまったという報道をよく見聞きする。
人は誰でもいつかは死ぬものであるが、そうは分かっていても、身につまされるものがある。
年老いてくるとなおさらである。諸行無常、確かなこと。
なのに、一寸先は闇であることを忘れて、明日のことを思い煩い生きている。
事実、ほとんど我が身に明日はやってくる。
ほとんどであるために、
およそ人間の寿命というものを知り、(70頃から100弱までと勝手に思い)
寿命までは生きているだろうと都合よくしてしまう。それはまた、仕方の無いことなのだとするも、
仕方の無いこととして生きて、気にしてもしょうがない。

「気」にしないで生きるということは、案外大事な事で、
病気を気にすれば、病気が絶対となり正しいとなってしまう。そのために、病が頭から離れずに、病に冒されていき、
病に負けてしまう。
常に気が刺激してしまい、その部位が異常に刺激となるためである。
自分が思うほど、自分というものを人は知らず、自分を支配する脳を知らない。
脳が思い違いすることを、心が勘違いしてしまう。
病気というように、病も気である。エネルギー、つまり、
エネルギーとしないで使わないでいること。
そうすれば、やがて浄化されて、そのエネルギーは消え去っていく。
なぜ、浄化されていくのかといえば、あらゆるものが動いていて、その動きが円運動となっているために、
元に戻るためである。ゼロになるためである。だから、浄化となっている。それがエネルギーの法則であるためである。

気を遣うということは、エネルギーが注がれていくために、
よく燃えて現象化してしまい、その結果、自分が焼き尽くされてしまうのである。
気とせず、忘れていること、忘れてしまうことでそこから抜け出せる。
馬鹿は風邪を引かないと昔から言われるが、一理はある。
馬鹿であるために疎くて気が付かず、つまり、疎くて気とならないためである。
気、エネルギーとならないために、遣われることがなくもえることがないためである。
病は気からともいわれるのは、気の遣い方、操り方というのが大切ということ。
「忘れる」、楽につながる事である。一つの方便。
馬鹿になる、馬鹿に為れるということは、すぐれるということでもある。
因みに、
寿命が来て老衰で死んでいくとき、人は惚けていく。
惚けていくことによって、死の恐怖から離れられていくためである。
怖いということが忘れられていき、怖さが無くなり、穏やかな気となっていくため、
自然と安らかな顔立ちとなって死んでいくものとなっている。
実際、あの世というのは怖いところではない。
心のあり方によって成る世界である。
それは、この世と同じで、地獄として生きたか、幸せだったとして生きたかの‘心の思い’である。
コメント
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