つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

このよ世だけ

2012-11-20 | Weblog
この世とあの世は同じである。
人は死んでも同じである。
記憶の現象があの世であるために、
人は死んでも変わらずにあの世で生きている。
心の想いで世界があるために、少しも変わらない世界となっている。
この世と同じであるといっても、この世に生まれたときのように、あの世に生まれるというのではない。
死んだら即あの世となるのだが、心に死というのがないために、
この世の現象がそのままあの世の現象となっている。だから、自分の死は他人の死となっての現象である。
現象には自分が生きているために、自分の死が他人の死となって認識する。

夢を見ていて、夢だとは思わないで見ている。
夢が時間を越えて過去となっても違和感はないように、
不思議と思わないで見ている。
瞬時場所が変わっても変だとは思わない。
どんなに見ていても飽きるという感じは無い。
時間が無いために、時間を感じることは無い。
夢の世界はこの世とまったく変わらない世界であるために、
夢の世界にいることすら気づくことが無い。
夢というのは、目が覚めて始めて夢だったと感じる。
あの世というのも夢と同じ世界である。
あの世となってもあの世であるという認識は無い。
あの世いうのは夢と同じ現象の世界である。
地獄であっても地獄という認識はされない。
苦しくて当たり前として認識されるだけである。

夢と同じように心にも時間が無いために、心は年をとらない。
だから、肉体との食い違いが生まれる。
肉体の衰えに「こんなはずでは?」としきりに思うのはそのため。
肉体は時間と共に衰えてしまう。
時間に支配されているためであるが、心はそうではないためである。
そのために、心は、自由奔放に過去も未来も行き来する。空間も飛び越える。
時間を持たないということは、永遠ということである。それが生命。

行いによって記憶が創られ、記憶によって心が創られていく。
そうして記憶が積み重なって、統一され今の自分の思いとなっている。
一つの人生、一つの人生と区切られ、その輪廻して作られた思いの統一されたのが自分という性格、質、人格。
くれぐれもよい記憶をつくることである。
縁あって、
またこの世に生まれるときは、
いまだ彷徨の身、苦楽から学ぶ。まれな機会であるために、活かすことである。
進化はこの世だけ。
あの世に行ってからでは浮かばれない。
コメント
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