つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

思いの進化

2011-04-19 | Weblog
この世の中にはどうしても浅ましい人がいて、自分の損得だけを持って生きている。
損をするとわかることは
はなはだ近寄らない。自分は得をするのではと思われることにはそれとなく首を突っ込みかじりつく。
見栄を張り、自分のことを高く評価して伝えたがる。
そういう人でも人の姿を装っている。
悪いものはきらびやかなものをまとい近づくように、いたって正当性をぶちまけながら生きる。
浅ましい人は、損得の中で、終に損となることを知らないが、ずる賢く、損をして得をとることを覚えるものもいる。
結局、終わりよければすべて良しもわからなくて、損の中での得でしかない下心で生きている。
そんな人を知って、悩める人は思った。この人もまた、私に対する観音の化身と、有り難く頭を下げた。
その人を知り訓えられたこと、してはならないことを諭されて。
人の振り見て我が振り直す
一つ一つ正されて生かされている。有り難いものだと感謝して、悪を抱かなかった。
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多世界

2011-04-18 | Weblog
死後の世界が人の経験とならない世界であるために、知識となることがなく
記憶となることが無い。
だから、想像でしか語れず、間違っていても正誤がわからない。
啓示として語られなければ、決して知ることのできない世界である。
その啓示も、縁起によらなければ語られることも無い。
仏が神が諭し示すのも、人との縁がなければ示し申すことはできない。
∴、仏、神と呼ばれた人ももとは人である。そして、
善行に励んだ人であるために、善行に励んでこそ結ばれる縁である。

天国も地獄も死後の世界のことである。夢想のことであるために、
もともとあるものではなく、一人ひとりが創り赴く世界である。
夢想の中に悪の記憶をつくらなければ、すべての人が清浄の願いを発した人となり
天の国となっていく。
眠っているとき出会っている彼女、彼氏と、目覚めているときにいる彼女、彼氏とがいるように、
同じである人が夢想の世界にも別にいる。
一人ひとりの解釈の世界である。
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夢想の世界へ

2011-04-17 | Weblog
人の歴史は21世紀を越えられないと思われる。
そこまで人の心は悪に満たされてしまっているようだ。
善悪顛倒となっている為に、すべてが悪魔の行為となってしまい、
救いようが無くなっている。
自分から距離を置いて、客観的に物事を見ようとしても、それ自体主観であるために
客観視することはできない。そのために、誤りを正せないでいる。客観は自然だけである。
その自然が下した判断が滅亡の判断である。人類の歴史を振り返って、致し方ない判断である。
なぜなら、争いの歴史であるから。あらゆる支配を求め、支配下に置かれることを避ける為の
科学の進歩となって、自らを死の恐怖にさらしてしまう。まさに悪の進化となっている。
神を信じるものは、神を否定、冒涜するものが悪であり、その悪と闘うことが正義であると考え
争う。争いを正当としてしまう。争いがいかなる意味においても正当となりえないことに気づかなくなってしまう。
人は自分を正しいものとして、相手が悪であるとするためである。

自然は、ある日突然荒れ狂うのではない。さまざまに少しずつ兆候を示し、その悲しい事実に戒めを含ませる。
悲惨な光景をあえて作ってはなら無いことを示すのだが、争いをやめることが無い愚かさに厭きれる。そのために、
滅亡は避けられない事実となってしまうが、
生命の真実の世界は、死後の世界である。心に悪の無い人こそ、希望の世界となっている。
それは、発大清浄願となるためである。
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徳な道

2011-04-16 | Weblog
人の道を歩む。その道は
徳の道である。そして、徳に満ちた道となれば、
曖昧な世の中にありながらも、災いを転じて福となし、また、
そこここに煩うことなく難を逃れ、
他人にとっては厄介であっても、本人はそうではなく
気がかりなく事過ぎていくものとなる。
あらゆる面で大事は大事に至らず、大切は大切に守られていく。

人の一生は死ぬ為の一生である。
死後が大切である為に、死後の為の人生となっている。
生命の不滅を悟れるならば、死を絶対条件として生じる意味が見えてくるはず。
肉体のための生命、魂ではない。生命のための肉体であり魂である。
個体を持っていかに生命を完成させていくか、人生の歩みが魂の向上となれば、
その肉体の価値もあったといえよう。肉体の行為はすべて人生浄化の行為である。
心に基づき心によって動き、魂が出来上がっていく。そのための手段的道具である。
魂を離れて、
肉体はただの肉の塊に過ぎないが、生前どのように労わり扱っていったかによって、
心が反応し魂が容創られていく。苦しくも快くも肉体を通して伝わってくる。

徳の道を歩んだ人は、苦しみも転じて喜びに変わり、
患うこともなくなっていく。
地獄天国と心の苦楽がある生物は人だけである。
憎しみを持たない他の生物に地獄などは無い。
人は、憎しみを持つ為に悪がつくられ、地獄を作ってしまう。
もともとあるという地獄など無く、地獄を作って赴いていくのであるために、
悪心を抱かないことが要である。

徳を積みながら生きて、肉体の終には安心である。
余徳である。
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ととのえて

2011-04-14 | Weblog
何か事件が起こった後というのは醜いものである。
災害の後の荒んだ風景。
あらゆるものが乱れ、夥しく汚れてゴミとなる。
見に苦くなるものだ。綺麗なものとは程遠い。
そのように、乱れたものとは汚く悪なのである。

∴、整われたものは綺麗、見る目に優しく善いことである。
だから、
身の回りの気づいたところからでも
綺麗にして、整理整頓に心がけていくだけで
人は美しくなっていく。
よく身も心も調われたものは麗しいものである。

私は私を善く調えよう。
ぼろを着てても
よくあらわれたものは綺麗であるように、
そして、好かれるように。

心乱れることなく身も乱れず、ならば悪の入る隙も無く。

よいことは善い人が喜ぶ。悪い人はよいことを喜ばないものだ。
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不倫

2011-04-13 | Weblog
姦淫=倫理にそむいた肉体関係と辞書にある。
「汝、姦淫するなかれ」と聖書に説かれている。
性の交わりを悪としているのではなく、不倫での性交を戒めているのである。
性行為は互いを浄化する行為となっている為に絶対善の行為である。が、不倫での
性行為は誤った浄化の行為となって悪魔が作られてしまう。なぜなら、今までの相手が
悪となってしまうためである。けっして愛(幸せ)の世界が創られなくなってしまう。

正しい性行為は、生命の絶対善の行為、浄化の行為であるために称賛されるべく行為である。
そのために、誕生する子供は愛しい者となって、幸せな世界が創られていく。
倫理にそむいて、天国がつくられることはない。
愛する行為こそ至福の行為である。
「正しく」・・これにつきる。
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2011-04-12 | Weblog
人もまた自然の産物である。
そのために、人の行為を見て自然の動きも読めてくる。
小は大を具えて、大も小を兼ねるために、どちらを調べても予ねて見ることができる。
人の心が乱れてくれば、自然もまた乱れてくる。かつて無かったことをすれば、かつて無いことが起こってくる。
未曾有と叫ぶも
人の邪心から引き起こされている。
自分は悪くないとし、悪は他人によるものであるからと、
人に正しく対応できない為の悪魔な現象。

みんな動いていて静止しているものは無い。生きている為に。生きているということはそういうことである。
生きているということは動いているということ、変化していることである。その変化は進化である。
人の誤った進化によって、地上の生物は運命共同体として滅亡へと進んでいる。
ゼロへ戻る宇宙の法則。滅亡が新たな希望の始まりでもあるために、滅亡を恐怖としないことである。
法則である為に、避けようの無い事実として、これから訪れる悲劇は9.11・3.11と過ぎて、まだ見ぬ12.22と数字が並ぶ。
未来は不定である。
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矛盾に満ちて

2011-04-11 | Weblog
川を汚し山を汚し空気を汚し自然を汚しながら
環境破壊を訴える。
家畜の肉を食べながら動物愛護を訴える。
人のために自然を壊しながら自然破壊を訴える
人というのは矛盾だらけ。

損得で計り、損して得とれと下心、
損得は損。
損得無くして徳となる。
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忘己利他(もうこりた)

2011-04-10 | Weblog
冬の朝、水道水は非情に冷たい。
でも、蛇口から適度に温かいお湯が出る。いい加減でお湯がふんだんに流れ出る。
有難い有難い事である。自然には無いことである。本来、あるはずも無く、あることが難しいことであるために、
有難い有難いと言って、あるはずも無いことに頭を下げてたまわる。
くる日もくる日も繰り返されて当然となり、感謝も薄れて
この感謝を感謝することなく当たり前としてしまうこころに、当たり前でない事柄が起こる。当然のように
当たり前はなくなる。
当たり前としてあったことが無くなったとき傍と気づくも時すでに遅く、犠牲が払われる。
粗雑になった心の波動が連鎖して、自然の流れに共鳴、浄化となってあらわれる。

毒矢がささっているものに
時の猶予は無く、あれこれ分析などかなわない。

無償の愛、無償の奉仕で償いとなる。(ひとをほめる)と書く償い。自然はただそれを待つ。
それなのに、あれやこれやと利己的では、一年後再び地獄絵が映し出される。
高々に掲げられた新たな電波塔は、それを映し出しながら脆くも消え去ってしまうのか。
もうこりた・・・なのに。
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あぁ~

2011-04-09 | Weblog
邪な心があるために
対価をもって交流が為され生きている。
対価が幅を利かせていくために
生き辛くなる。

それぞれの役割を受けて生まれるものである。いや、
それぞれが、知らない為に為された行為に基づいて
与えをつくり、生まれているものである。
意味あっての生まれである。それぞれがそれぞれの幸福を目的にしているが、
その目的が知らない為に、程遠く回り道をして目指すこととなる。

生命の目的は一つ、幸福である。

意味(知らない為に)あっての役割をつくり、役割をこなし生きるのが自然の対価、無垢な生命を取り戻し、
本来の幸福へ向けての出発点となる。その役割に金銭的対価などあるはずもない。
もし、与えられ生きている、生かされていく生命の目的を知るなら、金銭的対価など必要ないものである。
それぞれの役割を全うすれば幸福が得られるものである為である。

どんな役割であれ、必須なのは愛である。
心を配り、労わり、手を差し出して手を当てて、さすり癒しあい、抱えあい
共に共に歩むことなのである。
気遣いながら・・・が生かされる道である。金銭的対価など、人の作った価値など意味もなく必要ではなのだが、
人は金をつくってしまったために煩いができた。

無報酬の対価こそ進化の過程、生命の真の幸福を得られるものである。
無垢な生命の求めは幸福。
幸福は金では買えないのである。
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