以前にもまして心の病にかかる人が増えている。
ここ数年は更にという感じだ。
ビジネスの第一線で活躍していた人でも、ある日突然病にかかる。
1950年代は、皆貧乏だった。貧しかったために
生きていくのに必死だったが、なぜか「豊か」だった。
貧乏だったが豊かだった。おおよそ、誰しもに希望があったし、働けども、
そこかしこに‘癒されるもの’があったような気がした。
心は楽だった。
今、レトロと呼ばれる風景を好む人は多い。素朴なものに人はほっと
息をつく。
いつのまにか、いつのまにか、
ベタベタときらびやかなものに飾り付けられ、あれこれ彩られた時間の矢は、
人の心を魅了してきたが、それは一瞬の‘虜’。
人はいつまでもその虜の中に入られない。
瞳孔の強く開く刺激は、知らず知らずに人の心を蝕んで、
疲れさせる。
人の作り上げた、あれやこれや彩られた風景は、コンクリートジャングルとして、
急速に、時間の矢に張り合わせた、良かれと思って出来上がった景色。それは、
逃げ場の無い四角いリングのように、人の心を緊張させた。そのリングは、
相手を食して生きのびる獰猛な獣のように人を変えていった。
もともと賢い智慧をもつ人のこころは、共存というお互い様を
失って、見栄という自己的ものにとらわれて、必死で生きていかなければならなくなった。
少し前の昔、ちょっとした平和の流れてたころの、必死になって生きていた
貧しさとはちがう厭らしい貧しさとなってしまった。
群れをなして生きるものにありながら、「私だけは」と群れない心があるために、
人でありながら、人とは違うと競う。
人でありながら、‘人でなし’となるために、嗚呼、世の中は住みづらい。
住みづらいから、厭世観が蔓延って、自ら命を絶つ人があまりに増えている。
当たり前に言われる説教に
打ちのめされて、助けられること無く、命を落とす。
競争社会がもたらす悲劇。だから、競うな争うな。
・・・まっいいかとなげやる。
落ちてこぼれた人となる。それこそ、属さないものとなった。が、
生き生きと生きている。