つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

知らないだけ

2009-06-19 | Weblog
夜空の星を見て、私は今
いつのころの星を見つめているのだろう。
あの月の姿と同じく輝く星たちは、時間の隔たりを越えて
今を同じく照らしているけれど、
過去にあったものとしての今を映し出す。
今はもう無くなっているかもしれない時は、
どこかにまだ‘ある’を遷している。
すでに無いものがまだある世界は、すでに無いものを
いまだある世界に変えることができる。
時の不思議である。
人はまだそこに訪れる術を知らないでいるだけである。


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智慧

2009-06-18 | Weblog
確かにあまりに難しいことだが、
脳死をもって人の死とはならない。
内臓の機能停止をもってはじめて人の死となる。
脳は反応をしめさないが、体内の各臓器が活動していれば、
人は生きているということ。
人は人の生きていく中で常識というものを確立していくが、
それは必ずしも正しいというわけではない。
私たちを作り上げた自然の法則にならっていかなければ、
正しい答えは見出せない。それは、えてして人の常識たるものを、
根本からくつがえすものである。
たとえば、自分の親族、あるいは知人が、
誰かに害されたとしよう。
すると、害を与えたものを恨み、目には目、歯には歯と思う。
仇を取ろうと思う。これが人の常識とされる。また、現実そうである。
が、
仏、いや、先人の長けた者たちは言う。
恨みをもって恨みに報いれば、恨みやまずと。
争いの中に巻き込まれ、悲しくも死に至ると。
恨むな、
人の常識では、なかなか図れないことがらだが、実のところ、
これが幸せを得る最短の思いとなっている。
「害されて尚、恨まずと」。
凡人である私には、できないことと、だから、
心底、幸せを勝ち得ない。と知る。
自然の法則を身につければ、本当の正しい答えが見出せると、
仏は訓える。すべての事柄に、即答できるようになると。
自然の法則が、私たちを創りあげているのだからと。




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者は物ではないのに

2009-06-17 | Weblog
世界中不況の嵐が吹いていて、これからさらに
それが顕著となる。表向き揺るがないだろうと思われる企業でも、
内情を知るものの表情は曇る。しかしまだ、勝れる立場にある者は、
そのことを憂い、さらにもまして弱者の足元を見て利用しようとする。
都合のよい‘道具’として。
これが致命傷、致命的となる。

人は皆、何かの意味合いを持って姿かたちをしている。
ひとつとして不平等となってはいない。
しかし、人はそうは思わない。簡単に、
器量よく生まれた人と、不細工に生まれた人とでは、人の常識、
誰でも器量よく生まれたい。
苦労の仕方もぜんぜん違う。当然、
人は皆、よく生まれたいと思う。そして、ずーと幸せでいたいと。
これが生命の本能であり、これこそが生命の求める究極の姿である。

優れたものになるための道のりは平坦ではない。何にしても、
あまりに危うい道のりである。
生命においては、
そのためか、何度も何度も間違い、幾多と無く生死の苦しみを味わいつづける。
その時々の命の営みの業を受けて、ありのままの姿を現す。

生き方のうまい人が、ぎこちなく生きる人を、
自分のために適当にあしらって、不平等に接していけば、
やがてその立場が反転する。

今、その姿を持って優位であれ、そうでないであれ、
意味を生かせなければ、思いと裏腹となっていく。
意味とは、愛の情けである。

お金が絡んで、
介護される側と介護する側の立場も平等である。
共に、愛の情けを知るためにある。
互いに生きるための糧として道具、物となってしまえば、
どちらも金に殺される。

優劣など無い。相互が、為になってある者(しゃ)なのに、
者を物としてしまうために、社会は歪んでしまう。

人は者で物としてはならない。
人は者(しゃ)である。







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しらないを知らないと知ることで

2009-06-16 | Weblog
神も仏も信じないという人はたくさんいるだろう。
100人いたとして、100人全員が神、仏を実際にみたことはないだろうから
致し方ない。
でも、人は神社仏閣にでかけ、頭をたれる。
あれやこれや、助けてくださいお願いしますと。
困っていれば困っているほど。
期待もしていないけど、強く期待して。
いないとわかっていて、いることを人の都合に合わせて信じている。
‘わからない’を根本においてすべてを生きている。
わからないために恐怖し、身構えて生きている。∴人生はただこの恐怖を取り除くことにあるということがわかってくる。わからない=無明、これを諦かにして悟りとなり菩薩となるのであるが、現代、そこに気づく人は稀となっている。
無明を無くして、神となり仏となるのであるが、
以来、そのような悟りを開いた人はいない。
釈迦もキリストも菩薩も皆、人であった。
悟りを開いて神となった人たちである。
彼らは皆、不思議な力を身につけた人たちで、∴神様といわれる。




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騙す人は悪

2009-06-16 | Weblog
世の中、騙す人と騙される人がいる。
どちらが悪い人かといえば、
騙す人が悪。
中には、騙されるほうも悪いという人がいるが、
それは間違い。
騙されるほうにはまったく非は無い。

うそも方便とは違う。
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兆し

2009-06-15 | Weblog
ほんの少し、前を見る。
この年、この秋口から冬の初めにかけて、
ひどく景気が落ち込む。
ロウソクは燃え尽きて無くなる少し前、勢いよく燃える。
人もまた、亡くなる少し前、嘘のように(元気)になる。
何かが終わりとなるときは、そのような向きを示す。
過去にほとんど例のないほどの落ち込みだ。
人々はそれに驚愕し、なすすべが無く、一時たたずむ。
その上で初めて、‘いたわる’を気づく。
死ぬ目に遭うことで、はじめて‘知る’を得るが、
死んでしまっては元も子もない。
悲しき者は幸いである、死ぬ者の中にあって尚、死ぬことが無い。
いま、そういうことが起こる。少し‘前’(未来)になってのこと。

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まっいいかと

2009-06-14 | Weblog
以前にもまして心の病にかかる人が増えている。
ここ数年は更にという感じだ。
ビジネスの第一線で活躍していた人でも、ある日突然病にかかる。

1950年代は、皆貧乏だった。貧しかったために
生きていくのに必死だったが、なぜか「豊か」だった。
貧乏だったが豊かだった。おおよそ、誰しもに希望があったし、働けども、
そこかしこに‘癒されるもの’があったような気がした。
心は楽だった。
今、レトロと呼ばれる風景を好む人は多い。素朴なものに人はほっと
息をつく。

いつのまにか、いつのまにか、
ベタベタときらびやかなものに飾り付けられ、あれこれ彩られた時間の矢は、
人の心を魅了してきたが、それは一瞬の‘虜’。
人はいつまでもその虜の中に入られない。
瞳孔の強く開く刺激は、知らず知らずに人の心を蝕んで、
疲れさせる。
人の作り上げた、あれやこれや彩られた風景は、コンクリートジャングルとして、
急速に、時間の矢に張り合わせた、良かれと思って出来上がった景色。それは、
逃げ場の無い四角いリングのように、人の心を緊張させた。そのリングは、
相手を食して生きのびる獰猛な獣のように人を変えていった。

もともと賢い智慧をもつ人のこころは、共存というお互い様を
失って、見栄という自己的ものにとらわれて、必死で生きていかなければならなくなった。
少し前の昔、ちょっとした平和の流れてたころの、必死になって生きていた
貧しさとはちがう厭らしい貧しさとなってしまった。

群れをなして生きるものにありながら、「私だけは」と群れない心があるために、
人でありながら、人とは違うと競う。
人でありながら、‘人でなし’となるために、嗚呼、世の中は住みづらい。

住みづらいから、厭世観が蔓延って、自ら命を絶つ人があまりに増えている。
当たり前に言われる説教に
打ちのめされて、助けられること無く、命を落とす。
競争社会がもたらす悲劇。だから、競うな争うな。
・・・まっいいかとなげやる。
落ちてこぼれた人となる。それこそ、属さないものとなった。が、
生き生きと生きている。



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不器用な者で

2009-06-13 | Weblog

人生は苦しみを与えて、
わが身に引き当てて思えることを訓えるが、
思いやる心も無く、哀れみを惨めと見つめて、
蔑む心で触れ合う。
私でなくてよかったと、

不器用でつまずく人の思いを見下ろして、
誹謗する、

「貧しき者よ、汝等は幸いである。悲しき者よ、汝等は幸いである。
天国は汝等のものである。汝等は癒されるであろう。」

やさしいから弱い。愛があるから弱い。思いをやるから弱い。
悩み苦しむ人は愛情にあふれている。
省みる人は、実に賢い。
彼らといっしょは実に楽しい。
やさしい人ほど、悩む

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道理は訓える

2009-06-11 | Weblog
広大な宇宙には、人類など及びも付かないほど豊かな知能をもった生物がいる。
彼らはおおよそにして、友好的である。
賢いものはよく宇宙の道理を知っているのである。
過去と未来を自由に行きかい、その成り行きを見て、今に現れる。
過ぎ去りしものを、変えてはならないものと、変わるものとの界をみて
自由に飛び交い、道理に従う。
人が車を作るように、人が動物を助けるように、彼らはその時々に物語る。

誰しも不意に死にたくないと思っているが、意思にかかわらず人は死に遭う。
それは生きている人の経験とはならないために、生きている人は、死をわからず怖がる。
死んだものは人ではなくなるために、生きている人との縁とならず、あの世のことを語ることができない。
「過ぎたるは及ばざるが如し」
すべての賢者が‘過ぎ去りしもの’を呼び戻すことはしなかった。

他の星の知能優れた者たちにおいても、この世の流れを知りながら、
束の間の生命の表れをただ見過ごすだけである。
姿を持って運命としての変化を示すが、宿命たるや変えることはしない。
そのときどきの判断の現われの世界が、あの世界この世界と
多重に、平行に存在するが、現に現れるのは判断の結果のみの世界。
衆縁和合の世界である。
それは、生命自身の形においてのみ変えられるものであるために、
知能優れたものたちにおいても何もしない。

あの世は、それぞれの生命自身の想いの現象の世界となっている。
幾兆もの星の数があるように、生命の数だけ世界はある。
あの世もこの世も同じエネルギーの法則の世界であるために、
正しい進化の過程において、いずれ行き来できるであろう世界である。
が、悪心のあるところには、けっして訪れることのできない世界となっている。
それは、縁起の法によるものであるから
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どうかしてしまって・・・

2009-06-11 | Weblog
ただただ世の中は生じては消え、消えては生じてを繰り返す。
これは、広大な宇宙も、微細な世界も同じである。
すべてが千変万化しながら、時の流れを繰り返す。
すべてを創造している法則が円運動であるために、繰り返すことが絶対となっている。円運動であるために、始まりも終わりも無いものとなって、なくならないものとなっている。円い形となっている。
そのために、原子の世界も、広大な宇宙も形は円く、くるくると回転している。
ただのひとつも静止しているものは無い。
この回る変化が時間を作り空間を生む。生まれるものは変化によって滅する。
だから、時も回る。繰り返すものとなっている。止まることの無い動きであるために、刻一刻と生まれては滅してと巡っていく。空間もまた円い。その空間も
収縮しては膨らんで、膨らんでは収縮してと繰り返す。
これが宇宙という空間である。永遠とも思われる長い長い時の流れの中の繰り返しである。
生じるものは滅するという道理に依っている。
円運動であるために。これが無くならないものとなって唯一の法則となっている。
世の中のすべての存在がこの法則の下の存在となっている。
だから、明日は必ずやって来る。絶対となっている。この法則が
なくなることの無いものとなっているために。
明日が必ずやって来ると信じられるから、人は安心して生きていける。
もし、明日が来るか来ないか疑わしいものであったなら、
恐怖となって人は生きていけなくなる。

信じるものは救われるというのもこの道理によるものである。
何事も疑って生きていくのは哀しいことであるのは、疑いが法則と摩擦となるためである。
繰り返すことが絶対となって作られている為に、
これが正しいとなって絶対善となっている。
円運動であるために、人の動きもすべて円運動となっている。
毎日毎日同じことを繰り返し生きている。これが絶対善となっていく。
この反復が正しいとなっていくために、間違った行為をして気づかず、
繰り返していけば、それが正しいとなってしまい、誤りを訂正できなくなってしまう。

この宇宙も高速で回転している。独立した動きであるために、何にも左右される事のない動きとなっている。少しも狂いの無い動きとなっている。
地球もまた高速で回転している。およそ時速1600~1700キロ、そして、
太陽の周りをおよそ時速107000キロ~120000キロで回っている。
もしこの公転が無ければ、地球上のあらゆるものは宇宙に放り投げられるだろう。
信じがたい速度で回っているにもかかわらず、人は目を回さない。
それは同化している為。同じ速さで回っているために気がつかなくなっている。
そんな馬鹿なと人は思うが、人の常識などあてにならない。
それと同じように毎日の繰り返しが誤ってしまえば、その過ちに気が付かなくなってしまう。日々の繰り返しに同化してしまうためである。
それが正しいとなっていく。
悪が善となって、善が悪となってしまい、悪だらけとなっていることに、
人は気がつかなくなって繰り返しの時を刻んできた。
人類の歴史は争い、殺戮の歴史である。
それはほんの束の間を縫い繰り返す。
悪に同化してしまった人類の悪のエネルギーは、浄化の法則である円運動との摩擦となって、道理のもと滅ぶ。
今の優れた文明の科学も及ぶところではない。
21世紀それは起こると法は予言する。
妙法である。


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