今まで善とされていたところが実は悪だったと、公にも知りつつある。
もう隠しきれないために、手の平を返すところが多く観られてきたが、日和見にあるのは、
自己保身的に過ぎないために、優勢にある処に加勢しても、やがて没していく。
元からブレずにあったなら、必ず報われていくものだ。ただ、この世に於いて、
まちがいは誰にもあるものだから、それに気づくことである。
それに気づいて改められたなら、それは救われていく。報われていく。
やり直しがきくのはこの世である。
あの世に逝ってからではもう遅い。あの世はやり直しがきかない世界である。
なぜなら、あの世は単に記憶の現象世界であり、肉体は存在しないからである。
魂が成長するのは、肉体経験からの感覚だけである。そのためのこの世の生を受ける。
幾多に渡って輪廻してきた魂は、幾多に渡る生前の記憶の統一された魂として生まれ変わる。この世に生じる。
業の積み重ねによる性格が現在の貴方である。なぜ私はこんな性格なのだろうと思うのは、
過去世からの統一された記憶で作られている。それは、自らに由る事としてある。
自身が作った自由からである。性格の善し悪しは、記憶の善し悪しにあり、
良い経験の記憶、悪い経験の記憶の差である。そのために、肉体経験の記憶は大事であり、良い経験を積むことに意義がある。
だから、この世は大切であり、悪い経験を積んではならないならない。
私の性格が嫌いだ、なぜこんな性格?と思うこと自体が改心できる一歩である。希望はある。
希望はあるために投げ出さないで、あきらかに自分自身を見てほしい。すれば必然あきらかに見ることができる。