つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

必然

2023-03-31 | Weblog
私は何も知らなかったから何の罪は無い、とすることはもはや通用しない。
ただ上からの命令で行っただけだから罪は無いとするのは、自己の判断を他に委ねるという、
ある意味責任逃れであるからです。
善い悪いは、たとえ上層部からの指示であっても、自らの区分けをしなければならない。
でなければ、ただの奴隷であり、自己の否定となってしまう。その区分けが自身の善悪に適っていれば、
悩むことは無くなる。少なくとも「あれっ?」と思う疑問が立てば仏心をもって救われるのではあるが、
クモの糸が現実を分ける。本心の善し悪しがはっきり弱さと強さを知る。後悔は先には立つことは無い。
この学習をもって、
たとえ、それによって自身の不利益となろうとも、我が心の善悪は無くしてはならない。
ただ保身に走り、心に欺けば、必然失墜に与る。辻褄は合わさっての存在、
縁というのは最終的に道理である。何もないところに何かは起こらないのである。
あえて起こすものがあり、その起こすものの企みによって「起」とすることをなくそうとしても、
辻褄の褄はあわなくなる。終にはの「終」はその「起」をもって報うのである。

天国というのは平坦である。だから、すべてが見渡せる。起伏は無いという事。
善いも悪いもないという事。すなわち善いこと。安全であるという事。
仏においては極楽浄土であり、同様平坦である。すべてが清浄願の世界となっているために、
鍵などと言う事物は要らない。無防備な世界である。が、強固である。信じるに値する世界である。
コメント
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