つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

心に不安を抱く生き方をしない

2020-01-14 | Weblog
生きていくことの目的は、生命エネルギーの浄化である。これができるのは、
肉体を持って生きている間だけである。
生命エネルギーは、肉体を持ってエネルギーの進化を行う。
肉体を持たなければ、生命エネルギーの浄化ができなものとなっている。
エネルギーの進化とは、浄化である。正しく浄化していくために、生命は物質的肉体を持って生まれてくる。
物質はすべて無常であるために、肉体は必ず滅するものとなっている。
肉体の滅した後の生命エネルギーは、肉体経験の記憶の現象世界となる。これがあの世と言われる。
記憶がエネルギーであるために、肉体の消滅後は、生前の記憶がすべて現象して世界となっている。
だから、この世とあの世は少しも変わらない世界として見える。
肉体は記憶の現象肉体となるために、この世界では新たに記憶するということはできない。
記憶する肉体が火葬されて無いのだから。死んでからは、
エネルギーの浄化もできない。生前の生き方の果の場を現象していくだけである。
わかるだろうか?だから、あの世の事を思い出すことはできない。
つまり、死後の世界の事は記憶とならず、一切思い出すことはできない。
完全に反応を示さない世界となっている。どんなに祈っても、供養しても反応を示すことは無い。
これが肉体の死後の世界である。
稀に、生前の記憶を思い出す人がいるが、それは肉体を持って生きていた時の記憶であり、あの世の記憶ではない。
このことからも生命に死が無いことがわかるだろう。
エネルギーの法則が、無くならない法則であることがわかるだろう。
一日が常に繋がっていき、始まりが終わりとなっていることが知れるはずである。
無くなることのない法則となっている。この法則で生命は生じているために、
毎日同じことを繰り返して生きている。そして、これが浄化であり進化である。

夢の世界と死後の世界は同じ現象の世界である。
記憶の現象世界である。だから、夢を知れば、死後の世界がどんな世界であるのかが見えてくる。
人の眠っている姿は、見た目死んでいる姿と何ら変わらない。
意識があるかないかだけである。
横たわっている時見る世界、これが夢の世界である。
夢を見る日と見なかった日があるが、眠れば必ず夢は見ている。
ただ記憶になるかならないかである。
毎日夢は見ているのであるが、完全に眠っていない状態、つまり、眠りの浅い状態のときは、脳はこの世と夢の世界のはざまにあり、
記憶することができる。が、熟睡してしまえば完全に夢の世界となり、一切の反応は示されなくなる。
だから目が覚めた時、思い出すことはできない。そのために、夢は見なかったと思う。
夢と認識するのは、脳のまどろみの時の夢である。
死後の世界も同じである。意識が完全にあの世となれば、一切反応を示すことは無くなり、思い出すことはできない。
死後の世界は、意識の世界であり、エネルギーの法則の絶対世界である。
どんなに修行をして悟りを得ても、あの世の事は知ることができないものとなっている。
そのために、釈迦は、生命エネルギーの空白の間であるとして、死後の世界を空の世界と説いたのである。
生命の空白の間であるとしたもので、人生を空しい世界であるとしているのではない。
人の知ることのできない世界であるとして「空」と説いたのである。
人は、釈迦の言葉の意味を誤解して、空の意味を空虚である、幻であるとしたために、
実体がある自分との矛盾となって、すべてがわけのわからないものとなってしまった。
本来幻であるものに執着するために、苦が生じてしまうと勝手に理解してしまった。
この間違った解釈が、すべての間違いとなって、人生となっている。
死ねばすべてが無になるとするために、意識はどこへ行くのか、どうなるのかわからず、
死がすべての恐怖の本となっている。
死後の世界は、記憶の現象肉体であり、あの世で新たに生まれるという肉体ではない。
ただ意識(生命)に死がないために、意識がそのままつながっているだけである。
あの世は、意識の現象世界なのである。
だから、家族は現象の家族であり夢の家族と同じである。友人知人も夢の友人知人である。
わかるだろうか?

意識に死が無いために、人は何度もあの世とこの世を行き来して、
その経験の記憶が統一されて今の心となっている。

生命に死が無いために、恐怖となることはないのが本来である。
恐怖は、死というものがわからないためにある。
死は生命の再生となっている。生命の浄化が人生となっていて、
完全に浄化となるまで輪廻する。
このことを知らずに、死んだら何もかもおしまいとして生きるために、
好き勝手をして生きる。悪いことをして生きれば、生命の間違った浄化となり、
苦しんで死んでいく。この人達の死に方を見て、人の死がすべて恐怖となっている。
悶絶して死んでいく人たちの死を見て、死が恐怖となっているのである。
正しく生きた人の死は、顔が穏やかで安らかである。
このことからも死が恐怖となるものでないことがわかる。
死が生命の無くなることではないと知れば、恐怖も無くなっていく。
だから、寿命は全うすることである。
なるべく善いことをして、自分がされて嫌なことは他も同じであると覚り、
何事にも反省して、感謝して生きていけば安心である。
死が恐怖となることは無く、穏やかに旅立っていけるのである。



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