生命の浄化の行為が「刹」である。
悪を刈り取るという意味の文字である。
だから、この行為を覆い隠すのが羅刹。
清浄である神は、無刹不現身として、
「刹」のないところ、いわゆる、浄化の行為がされないところには
現れることは無いとしている。
不浄な心の者には、どんなに願ったところで
決して現れることがないのである。
人の行為は、すべて生命エネルギーの浄化の行為となっている。
間違った浄化の行為となっていれば、地獄の世界となってしまう。
だから、正しい浄化の行為として生きていかなければならない。
エネルギーの法則を悟れば、自然と法則の身についた行為となって、
正しい浄化の行為となっていく。これが経験から知り得る知恵である。
この知恵の判断は、迷うことを必要とせず、即断できていく。
だから、瞬時何事にも対応できていくものとなる。
エネルギーの法則というのは、円運動の法則である。
円運動であるために、無くなることのない運動となっている。
始まりが終わりであり、終わりが始まりであるために、永遠とつながっていき、
無くならない運動となっているのである。この「無」が般若心経で説かれている「無」である。
だから、般若心経の「無」は「ない」と訳すのではなく、「無くならない」と訳しての「無」であり、
正しく無の解釈となっていく。つまり、般若心経の「無」は否定のための「無」ではないのである。
この「無」の解釈が間違っているために、般若心経が否定の経典とされて、
現実がありながら幻であるとされ、この幻である現象に執着して生きるために、
苦が生まれるのであり、だから、無我になり生きていくことであるとし、無我になるためには、
肉体をいじめ精神修行をして、難行苦行に耐えてこそ極楽往生となるのであると教えられる。
これではとても常人にはできないことであるし、仏の言うあまねく衆生救済には程遠く、ごくごくわずかな精神卓越した達人でなければ、
救われないことになってしまう。矛盾が生じる。
般若心経は、エネルギーの法則を説き訓えているものである。
「色即是空 空即是色・・」と説かれているのは、
エネルギーの法則が円運動であることを言っているのである。
一日が零時から始まり零時に終わる。これが疑いもない現実であることを誰もが知っていることである。
終わったらまた始まるのである。これがエネルギーの法則であり、
生命もエネルギーの法則で生じている。
私たちも生命エネルギーであり、生死を繰り返しているのである。
一日が一旦として区切られ、また新たな別の一日が始まっていくように、
人もまた同じである。繋がっていくのである。
肉体は消滅しても心は連綿なのである。エネルギーそのものであるために。
だから、円運動であり縁となって繋がっていくのであることを知り、
悪を為すなと神仏は教え諭すのである。
エネルギーの法則を理解し、身に着けていくことである。
そうすれば、自然と正しい浄化の行為となって、誰でも悟りを開けていくと
般若心経は訓えているのである。難行苦行など必要ないものである、と。
このことを証明したのが、観音と呼ばれるようになった修行僧達である。
観自在菩薩と呼ばれた修行僧は、死後、般若心経を、観世音菩薩と呼ばれるようになった
修行僧は妙法蓮華経を、同じく釈迦の説き訓えた修行が縁となって、行じていた舎利子と呼ばれた修行僧達に
啓示となったのである。
死後の世界があることの証明となったのである。
これは、釈迦の説き訓えたことが正しかった証明ともなっているのである。
悪を刈り取るという意味の文字である。
だから、この行為を覆い隠すのが羅刹。
清浄である神は、無刹不現身として、
「刹」のないところ、いわゆる、浄化の行為がされないところには
現れることは無いとしている。
不浄な心の者には、どんなに願ったところで
決して現れることがないのである。
人の行為は、すべて生命エネルギーの浄化の行為となっている。
間違った浄化の行為となっていれば、地獄の世界となってしまう。
だから、正しい浄化の行為として生きていかなければならない。
エネルギーの法則を悟れば、自然と法則の身についた行為となって、
正しい浄化の行為となっていく。これが経験から知り得る知恵である。
この知恵の判断は、迷うことを必要とせず、即断できていく。
だから、瞬時何事にも対応できていくものとなる。
エネルギーの法則というのは、円運動の法則である。
円運動であるために、無くなることのない運動となっている。
始まりが終わりであり、終わりが始まりであるために、永遠とつながっていき、
無くならない運動となっているのである。この「無」が般若心経で説かれている「無」である。
だから、般若心経の「無」は「ない」と訳すのではなく、「無くならない」と訳しての「無」であり、
正しく無の解釈となっていく。つまり、般若心経の「無」は否定のための「無」ではないのである。
この「無」の解釈が間違っているために、般若心経が否定の経典とされて、
現実がありながら幻であるとされ、この幻である現象に執着して生きるために、
苦が生まれるのであり、だから、無我になり生きていくことであるとし、無我になるためには、
肉体をいじめ精神修行をして、難行苦行に耐えてこそ極楽往生となるのであると教えられる。
これではとても常人にはできないことであるし、仏の言うあまねく衆生救済には程遠く、ごくごくわずかな精神卓越した達人でなければ、
救われないことになってしまう。矛盾が生じる。
般若心経は、エネルギーの法則を説き訓えているものである。
「色即是空 空即是色・・」と説かれているのは、
エネルギーの法則が円運動であることを言っているのである。
一日が零時から始まり零時に終わる。これが疑いもない現実であることを誰もが知っていることである。
終わったらまた始まるのである。これがエネルギーの法則であり、
生命もエネルギーの法則で生じている。
私たちも生命エネルギーであり、生死を繰り返しているのである。
一日が一旦として区切られ、また新たな別の一日が始まっていくように、
人もまた同じである。繋がっていくのである。
肉体は消滅しても心は連綿なのである。エネルギーそのものであるために。
だから、円運動であり縁となって繋がっていくのであることを知り、
悪を為すなと神仏は教え諭すのである。
エネルギーの法則を理解し、身に着けていくことである。
そうすれば、自然と正しい浄化の行為となって、誰でも悟りを開けていくと
般若心経は訓えているのである。難行苦行など必要ないものである、と。
このことを証明したのが、観音と呼ばれるようになった修行僧達である。
観自在菩薩と呼ばれた修行僧は、死後、般若心経を、観世音菩薩と呼ばれるようになった
修行僧は妙法蓮華経を、同じく釈迦の説き訓えた修行が縁となって、行じていた舎利子と呼ばれた修行僧達に
啓示となったのである。
死後の世界があることの証明となったのである。
これは、釈迦の説き訓えたことが正しかった証明ともなっているのである。