つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

正しく、ということ

2017-07-30 | Weblog
生命の浄化の行為が「刹」である。
悪を刈り取るという意味の文字である。
だから、この行為を覆い隠すのが羅刹。

清浄である神は、無刹不現身として、
「刹」のないところ、いわゆる、浄化の行為がされないところには
現れることは無いとしている。
不浄な心の者には、どんなに願ったところで
決して現れることがないのである。

人の行為は、すべて生命エネルギーの浄化の行為となっている。
間違った浄化の行為となっていれば、地獄の世界となってしまう。
だから、正しい浄化の行為として生きていかなければならない。
エネルギーの法則を悟れば、自然と法則の身についた行為となって、
正しい浄化の行為となっていく。これが経験から知り得る知恵である。
この知恵の判断は、迷うことを必要とせず、即断できていく。
だから、瞬時何事にも対応できていくものとなる。
エネルギーの法則というのは、円運動の法則である。
円運動であるために、無くなることのない運動となっている。
始まりが終わりであり、終わりが始まりであるために、永遠とつながっていき、
無くならない運動となっているのである。この「無」が般若心経で説かれている「無」である。
だから、般若心経の「無」は「ない」と訳すのではなく、「無くならない」と訳しての「無」であり、
正しく無の解釈となっていく。つまり、般若心経の「無」は否定のための「無」ではないのである。
この「無」の解釈が間違っているために、般若心経が否定の経典とされて、
現実がありながら幻であるとされ、この幻である現象に執着して生きるために、
苦が生まれるのであり、だから、無我になり生きていくことであるとし、無我になるためには、
肉体をいじめ精神修行をして、難行苦行に耐えてこそ極楽往生となるのであると教えられる。
これではとても常人にはできないことであるし、仏の言うあまねく衆生救済には程遠く、ごくごくわずかな精神卓越した達人でなければ、
救われないことになってしまう。矛盾が生じる。
般若心経は、エネルギーの法則を説き訓えているものである。
「色即是空 空即是色・・」と説かれているのは、
エネルギーの法則が円運動であることを言っているのである。

一日が零時から始まり零時に終わる。これが疑いもない現実であることを誰もが知っていることである。
終わったらまた始まるのである。これがエネルギーの法則であり、
生命もエネルギーの法則で生じている。
私たちも生命エネルギーであり、生死を繰り返しているのである。
一日が一旦として区切られ、また新たな別の一日が始まっていくように、
人もまた同じである。繋がっていくのである。
肉体は消滅しても心は連綿なのである。エネルギーそのものであるために。
だから、円運動であり縁となって繋がっていくのであることを知り、
悪を為すなと神仏は教え諭すのである。
エネルギーの法則を理解し、身に着けていくことである。
そうすれば、自然と正しい浄化の行為となって、誰でも悟りを開けていくと
般若心経は訓えているのである。難行苦行など必要ないものである、と。
このことを証明したのが、観音と呼ばれるようになった修行僧達である。
観自在菩薩と呼ばれた修行僧は、死後、般若心経を、観世音菩薩と呼ばれるようになった
修行僧は妙法蓮華経を、同じく釈迦の説き訓えた修行が縁となって、行じていた舎利子と呼ばれた修行僧達に
啓示となったのである。
死後の世界があることの証明となったのである。
これは、釈迦の説き訓えたことが正しかった証明ともなっているのである。


コメント
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