つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

計り知れない?

2016-08-11 | Weblog
人の寿命はほとんどは一世紀と持たない。
希に百二十歳ころまでは生きる人はいるが、
およそ人生八十年がいいところである。
その八十年も、ピンピンとして暮らせてたらよいのだが、
晩年寝たきりとなる人もいる。
それはまた、自他共に気の毒であるが、
何分にも人生は、自力にて生きているようでも、
他力のはからいが多大にして、生かされているというのが本当のところである。
そのために、自分としてはこのようにして死期をと思っていても、
ハチャメチャなことが多いものである。
ただ一つ言えることは、
善い人生(心)には、善い果があるものである。それは、
無念にしても、最後、これで良かったのだと、安穏たる思いで旅立つのである。
そして、
来世には、今生よりましな人生となるものだ。
また、
全くの無知にして、仏というのに触れることもなく、触れようともせず、
ただただ人生は、自力にてあるものだと終えるのであれば、
この苦しみの生死という流転にあるのみである。
なぜ?どうして?という、自分だけがこんな目に遭ってと恨みつらむだけである。

人が生まれ生きるのは縁に由るもので、
男女の性の交わりから生じる。
どのようなものに反応し、対応したかで世界が廻って来る。
反応は変化に対応したもので他力である。その応対の仕方が自力である。
その縁が廻り俄かに変化していく。
いつの世も、朝に、昼に、夜に、どれか一つでも目覚めてあれば、
切れ目ない流転の流れを断ち切り、自由気ままとなりうるのである。

さて、
人類より十倍の寿命を持つとされる神々、天使たちは、
理念をエネルギーの法則とし、自由の尊重を掲げる。
虚空より得られる遙かに優れた知能でもって唯心を知る。
そして、
天空より舞い降りて、地上に唯識を説く。
陰と陽を、昼と夜を、男と女を絡ませて、ありえるありえない両性をして見せる。
人が人工知能をつくるように、その先にある知の識別は、神とて知り得ないものである。
ただ、
深遠にしてあるべき法は、善悪の無い故に単純に善運動であることを示している。

地球と比べて巨大な太陽、その太陽が砂粒にもなるような大きな星々、
その超巨大な星々も砂粒となる様に包み込む宇宙。
計り知れない大きさを、計り知れない知能でもって読み解く。
‘今は未だ’と‘すでに’という時をもって示している。
エネルギーの法則の自由である。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする