つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

冥利に尽きるには

2016-08-18 | Weblog
「空」と説かれる言葉の意味は、
空しいなどとする空虚さを意味しているわけではない。
「空」はあの世の実体のことを指している。「色」はこの世の実体である。
「空」は「空白」という意味で、空白な時の間を示している文字である。
生命は、生死を繰り返すたびに、この世とあの世を行き来する。
それは、エネルギーの法則で作られている世界であるために、
エネルギーが円運動の自由によって、永遠となっているためである
無くならないものとして存在しているためである。そのエネルギーで作られているのも
生命である。変化が無常となっての常住である。
そのために、変化の刺激に対応し、応対した容が各生命エネルギーとなっている。
だから、生命には死というものは無い。応対した姿形は無常であるために、
時の流れの泡沫である。そのために、肉体は無常であるが、心は本生命エネルギーであり永遠である。
この世の誕生をもって、生命活動をし、心の向上を為せる曖昧な時を持っている。
曖昧というのは自由である。エネルギーの自由からきている。だから、善悪
心次第で生きられる。

この世が色であの世が空である。そのために、生死は、色即是空と説かれ、また、空即是色と説かれる。
これは、人が死んだら(肉体が滅んだら)この世はエネルギーの法則のよって即あの世となり、あの世も
エネルギーの法則によって即この世となると説いているもので、エネルギーの法則が円運動であることを語っているものである。

釈迦という人物?は実在の人物?であり、生まれに対しての絶対的条件を持つ死に対して、
何ゆえに死をもって生があるのかを知りたかった。
彼の本心は、とっくにその答えは知っていたのであるが、
地上の人々に訓えるために、自らの体を使って実際を示し訓えていった。
幾たびとなく生まれ変わる人生を見せ、あの時この時を指し示して、
訓えの最終を以って、「悟り」という心の在り方を得た者でも、
この世という色の世界では、あの世の道理は知ることができないものであることを訓えた。
凡そは知り得ても、凡そである為に、決して死後の世界がどうであるかを、尋ねられても答えなかった。
決して知り得ない世界であるために、生命の空白の時の間として、空白の空をとり、
あの世を「空」として説いた。
もし、確信の無いものを想像で語り、それが間違っていても訂正することができないために、語らなかったのである。
なぜ、知ることができなかったのか?それは、
あの世、死後の世界が、エネルギーの法則の絶対世界であるために、一切の刺激とならず
反応を示さないためである。どんなに悟りを開いても、死後の世界は
一切の反応を示さない世界であるために、知ることができなかったのである。
つまり、
死後がどうなるかということは、現世に於いては意味の無い事であるためである。
知ったところで、どうすることもできない世界となっているためである。
この世は「受」の世界である。エネルギーの回る変化に於いての、
外部から受ける刺激に対して反応している世界である。
エネルギーの法則には善悪は無い。これといった目的も無い。ただ廻っているだけである。
そのために、絶対善の動きとなって廻っているのである。
これが法則の道理である。自由である。
このことを覚れば、現世がどうあるべきか、どう生きるべきか、
置かれた、与えられた環境に於いて、どうあるべきかが
死後の世界がどうなのかを知らされているということである。
どうなるか?ということを尋ねることなど必要ないことである。さて、
肉体が滅んで、あの世に逝ってみて、如何なものであろうと、
決して修正の利かないところである。生命の絶対世界であるためである。
その世界を、幸せとするか否かが今生である。あの世に逝ってからでは遅いのである。

地獄に仏という言葉がある。
それは、死後の世界には時間空間が無い為に、どんなに長い間そこにいても、
飽きるということはない。毎日が苦しみの連続が永遠となるのであるが、
生死を繰り返すという輪廻を持つために、悪事の報いを終えて再びこの世に誕生の機会を得る。
これが、法則の慈悲である。地獄に仏である。この地獄から救われて、
この世に誕生するために、誰かの腹に宿す。
法則が繋がっているという道理である為に、心の行い、業によって、それなりの場に誕生となる。
つまり、縁起の法則であるためである。心が知らねばならないことを知ら占められるために、
置かれる立場となるのであるが、必ずしも、それが良い悪いというものではない。
置かれる立場をどう応対していくか、端的に言えば、どう正しく対処するかである。
正しくである為に、偏に善行にである。これを賢く理解しなければならない。
人のあこがれる立場にあって、甘んじて横柄にあれば、悉くうまくいかなくなるのである。
それは、現世に於いて出るか、未来世に於いて出るかは定かにあらずであるが、必須受けるものである。
また、人の気の毒な立場にあって、懸命に対応していったならば、後、冥加となる。
理である。



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