般若心経を正しく訳すことができる人は、すべての経典を正しく訳していける。
般若心経に出てくる舎利子を呼びかけられているとして訳されているものは、すでに誤って訳されていると知ることである。
その様な訳され方の心経を何度読んでも何の徳も無い。
得られるものなど何一つなく、むしろちんぷんかんぷんの訳が分からない、或は、
分かったようなでもわからない、ただよいことを聞いたんだなぁぐらいでしかない。
それはまた、卓越した人(僧)達の智慧で語られているために、
凡人である普通の人には理解できなくて当たり前なんだろうとして解釈してしまう。
まぁ執着しないで無我になって生きることがいいんだろうとしてしまう。
だから、得られるものは何もなく、悩める道は開けていかない。
もしも、卓越した能力があり、優れている者であるならば、劣っている?とするもの、
精神的未熟であるもの、つまり、理解が難しいとされる者の事を考え語るのではないだろうか。
難解な事をより簡単に単純にして、なるべく理解できるように語るのではあるまいか。
それが優れている者であり、微細なところにも心が配れる者ではないだろうか。
また、神仏と呼ばれるほどの者であるならば、情けあり、劣った者ほど救うということに主となるのではないだろうか。
頭の回転がよく、一を訓えて十を知る者には、それほど導きはいらないものである。
また、独学にて道を切り開いていける者であれば、道標はいらないものである。
優れた者というのは、そのように、繊細に心配りができるものである。
それが欠けていれば、自分の優越の為に、難解なものをより難解にして語るのである。
それは煩悩でしかなく、心無いものである為に正しく伝わってはいかないものとなる。
対機説法というのは、それぞれの能力に見合って話される訓えである。
そのために、真逆にして説かれるようにも聞こえたりするが、訓えは常に真実一つが答であることに終始するものである。
神仏と呼ばれるものはそのような事を心得て話されているが、それでも、聞くものに心が無ければ難しいものである。
ただ、真実優れた者というのは、難しいことを簡単にして語っているものである為に、
けっして説かれていることが難解なものではないのである。
聞く者が難しいものとして意識しているために、迷い惑うのである。
どんなに簡単にして教えられても、心無いものには難しいものである。
送信機があっても受信機が無ければ、届かないように。
般若心経は法を語っているものである。それも、法の世界から語られているものである為に、
真実嘘の無いものである。
人の経験とならない世界から語られたものである為に、知識で考えてしまうとけっして理解されることは無く、
訳の分からないものとなってしまう。
人の知識は、経験を絶対として知識となっている。
そのために、経験とならないものは知識とならなく、どんなに考えてもわからないものである。
人は、死が人の経験とはならない。だから、どんなに考えても、死後の世界は知ることのできないものとなっている。
分からないものは怖いとなって恐怖となるのである。それ故、死が人の絶対恐怖となって、すべての恐怖の基となっているのである。
死後の世界は、
法の絶対世界であるために、一切の反応の示されることが無い。
釈迦は、悟りを開いても死後の世界は知ることができなかった。
そのために、死んだらどうなるかという質問にも答えなかった。
もし、知ることのできないものを想像で語ってしまうと、それが誤りでも正しいとなり、
正されなくなるために語ることはしなかったのである。
だから、輪廻していく永遠の生命の空白の世界であるとして、死後の世界を空としたのである。
輪廻と輪廻の間の世界を知ることができないために、生命の空白の間であるとして、死後の世界を「空」としたのである。
空は虚しいとか、からっぽだとかとする意味で付けられた文字ではないのである。
それを誤解して空を否定の言葉であるとして解釈していくために、無の意味も否定の文字となって、
実態がありながら幻であるとなって、訳が分からない難しいものとなってしまうのである。
般若心経が、死後の世界から語られた啓示であるために、人の経験できない世界から語られた言葉である為に、
人は理解することができなく、仏の言葉であり、仏智であるとなり、凡人には理解できないものである為に、
ただ唱えていれば後利益があるものとなって解釈され、わからないために仏の真言であるとなり、
一心に読経する為の経典となっているのである。唱えてさえいれば仏に通ずるものであるとしているからである。
経典は訳されたものである。日本人に他国語で語られても理解できないように、
漢文に訳されたものを唱えても、仏とて分からないものである。神仏であるから優れているのだから理解でき、
通ずるものであるとするのは人の勝手である。
真実、経を唱えて、願いが叶いましたか?祈り唱えて叶うなら誰も苦しむことなどないではないか。
さて、道理(法)を正しく見て、法を身に付けた智慧をもって、
般若心経を訳していくことである。そうすれば、心経に出てくる仏たちが何の意味を持って出ているのか、
釈迦が語ったものは一つとして無く、経典が正しく訳されていくものである。
宗教の知識など一つも必要することなく、難行苦行という修行もいらなく、
覚っていけるものである。そのために、般若として、悩み多き大衆の心をみがくうたであるとした題名となって、
摩訶般若波羅蜜多心経と付けられているのである。仏の智慧の完成として付けられているのではないことが分かってくる。
般若の般は一般人の般である。若は数を表し、若干名の若である。
つまり、般若とは、不特定多数の一般大衆という意味で付けられている文字である。
その様に、人の知識ではなく智慧で読み解いていくと、正しく文字が理解されていくものである。
知識を滅して智慧で判断していくことである。
釈迦は、人の知識を滅していく修行、識滅の行をしていったのである。
そのために、山にこもり、自然の中での修行となったのである。
般若心経に出てくる舎利子を呼びかけられているとして訳されているものは、すでに誤って訳されていると知ることである。
その様な訳され方の心経を何度読んでも何の徳も無い。
得られるものなど何一つなく、むしろちんぷんかんぷんの訳が分からない、或は、
分かったようなでもわからない、ただよいことを聞いたんだなぁぐらいでしかない。
それはまた、卓越した人(僧)達の智慧で語られているために、
凡人である普通の人には理解できなくて当たり前なんだろうとして解釈してしまう。
まぁ執着しないで無我になって生きることがいいんだろうとしてしまう。
だから、得られるものは何もなく、悩める道は開けていかない。
もしも、卓越した能力があり、優れている者であるならば、劣っている?とするもの、
精神的未熟であるもの、つまり、理解が難しいとされる者の事を考え語るのではないだろうか。
難解な事をより簡単に単純にして、なるべく理解できるように語るのではあるまいか。
それが優れている者であり、微細なところにも心が配れる者ではないだろうか。
また、神仏と呼ばれるほどの者であるならば、情けあり、劣った者ほど救うということに主となるのではないだろうか。
頭の回転がよく、一を訓えて十を知る者には、それほど導きはいらないものである。
また、独学にて道を切り開いていける者であれば、道標はいらないものである。
優れた者というのは、そのように、繊細に心配りができるものである。
それが欠けていれば、自分の優越の為に、難解なものをより難解にして語るのである。
それは煩悩でしかなく、心無いものである為に正しく伝わってはいかないものとなる。
対機説法というのは、それぞれの能力に見合って話される訓えである。
そのために、真逆にして説かれるようにも聞こえたりするが、訓えは常に真実一つが答であることに終始するものである。
神仏と呼ばれるものはそのような事を心得て話されているが、それでも、聞くものに心が無ければ難しいものである。
ただ、真実優れた者というのは、難しいことを簡単にして語っているものである為に、
けっして説かれていることが難解なものではないのである。
聞く者が難しいものとして意識しているために、迷い惑うのである。
どんなに簡単にして教えられても、心無いものには難しいものである。
送信機があっても受信機が無ければ、届かないように。
般若心経は法を語っているものである。それも、法の世界から語られているものである為に、
真実嘘の無いものである。
人の経験とならない世界から語られたものである為に、知識で考えてしまうとけっして理解されることは無く、
訳の分からないものとなってしまう。
人の知識は、経験を絶対として知識となっている。
そのために、経験とならないものは知識とならなく、どんなに考えてもわからないものである。
人は、死が人の経験とはならない。だから、どんなに考えても、死後の世界は知ることのできないものとなっている。
分からないものは怖いとなって恐怖となるのである。それ故、死が人の絶対恐怖となって、すべての恐怖の基となっているのである。
死後の世界は、
法の絶対世界であるために、一切の反応の示されることが無い。
釈迦は、悟りを開いても死後の世界は知ることができなかった。
そのために、死んだらどうなるかという質問にも答えなかった。
もし、知ることのできないものを想像で語ってしまうと、それが誤りでも正しいとなり、
正されなくなるために語ることはしなかったのである。
だから、輪廻していく永遠の生命の空白の世界であるとして、死後の世界を空としたのである。
輪廻と輪廻の間の世界を知ることができないために、生命の空白の間であるとして、死後の世界を「空」としたのである。
空は虚しいとか、からっぽだとかとする意味で付けられた文字ではないのである。
それを誤解して空を否定の言葉であるとして解釈していくために、無の意味も否定の文字となって、
実態がありながら幻であるとなって、訳が分からない難しいものとなってしまうのである。
般若心経が、死後の世界から語られた啓示であるために、人の経験できない世界から語られた言葉である為に、
人は理解することができなく、仏の言葉であり、仏智であるとなり、凡人には理解できないものである為に、
ただ唱えていれば後利益があるものとなって解釈され、わからないために仏の真言であるとなり、
一心に読経する為の経典となっているのである。唱えてさえいれば仏に通ずるものであるとしているからである。
経典は訳されたものである。日本人に他国語で語られても理解できないように、
漢文に訳されたものを唱えても、仏とて分からないものである。神仏であるから優れているのだから理解でき、
通ずるものであるとするのは人の勝手である。
真実、経を唱えて、願いが叶いましたか?祈り唱えて叶うなら誰も苦しむことなどないではないか。
さて、道理(法)を正しく見て、法を身に付けた智慧をもって、
般若心経を訳していくことである。そうすれば、心経に出てくる仏たちが何の意味を持って出ているのか、
釈迦が語ったものは一つとして無く、経典が正しく訳されていくものである。
宗教の知識など一つも必要することなく、難行苦行という修行もいらなく、
覚っていけるものである。そのために、般若として、悩み多き大衆の心をみがくうたであるとした題名となって、
摩訶般若波羅蜜多心経と付けられているのである。仏の智慧の完成として付けられているのではないことが分かってくる。
般若の般は一般人の般である。若は数を表し、若干名の若である。
つまり、般若とは、不特定多数の一般大衆という意味で付けられている文字である。
その様に、人の知識ではなく智慧で読み解いていくと、正しく文字が理解されていくものである。
知識を滅して智慧で判断していくことである。
釈迦は、人の知識を滅していく修行、識滅の行をしていったのである。
そのために、山にこもり、自然の中での修行となったのである。