つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

心を磨くということ

2013-10-06 | Weblog
心というのは生きている間に磨かなければならない。
死んでからでは磨きようがないのである。
人が生まれてくるというのは、縁あって魂(心)が母胎に宿り、肉体をもってこの世に誕生となる。
なぜ生まれてくるのかといえば、魂(心)が悟れないためである。いまだ生命の法則を覚れないでいるために、
輪廻をしてしまうのである。それは、悟りが開かれるまで続く。
この世の中は、苦しみから喜びを学び得られるようになっていて、その逆ということは無い。
だから、悟ることも同じである。苦しみより為になることが得られるようになっているものである。
そのために、一切皆苦であるこの世の慈悲を受けて、魂の向上一途に、そして悟りを開き、
二度と再びこの苦しみの世に生まれてこなくてもよいようになるために、生まれてくるものである。
つまり、この世というのは、魂(心)の向上ができ悟りを開くことのできる唯一の場となっているのである。
心の修行の場という事が言える。故に、そのことに無知であれば、知らないが故の過ちを成すのである。
それが今生の人の常識というものとなっていて、常識であるために、ほぼほとんどの人が無知に生きてしまう。

生命がエネルギーであり、法則のエネルギーによって作られている。エネルギーの質が円運動となっているために、
無くなることの無い運動、容となって限りなく繰り返すものとなっている。故に、日の回りが絶対正しいものとして、
法則を是としている。一秒が一分が一時間が一日が一月が一年がと変化の区切りをもって、少しも変わることなく続いていく。
回るのである。
一人の人の一生も、だから同じである。ただ、この世の卒業として死という区切りがあるだけでまた来世はある。
それは、魂(心)が悟り、輪廻から解脱するまで続く。その長さは人それぞれで、無知であればあるほど、人の知る限りの長さを持つ。
廻り行く変化が無常としてあるために、肉体は栄枯盛衰にあり、死という区切りを持つが、心は肉体のような形は無くエネルギーのままであるために死が無く、
ただこの世とあの世を行き来する。それも法則の動き、円運動となっているからである。

心は時間を持たないために、心の現象であるあの世は当然時間が無い。どれだけ長い間居ようと退屈、つまり、
嫌になるとかならないとかという感情は持たない。心に時間の差が無い為に、そこにどれだけ居ようとも向上ということが無い。
あの世では、心を磨くことができないものとなっているのである。生前の心の現象であるために、その心の行為のただ償いにある。
穢い心をもってして生きた人のあの世は、至極当たり前、穢く償われる。穢い世界である。
それは、この世で、汚物に群がり生きる虫のようなものである。人から見れば、それはとんでもない穢い世界、地獄に変わりないと思うのに、
その虫たちは、果たしてそう思って生きているだろうか?それが当たり前で、地獄を地獄と思わないで生きているのかもしれない。
好い心をもって生きた人は、好い世界である。と、分かれる。その世界に曖昧というのは無い。どちらか一方。
つまり、絶対世界となっているのである。法則の世界そのものとなっているからである。
法則は絶対であるために無くなることが無いのである。絶対変わらない世界となっている。
だから、死んでからでは遅いといわれるのである。

どれだけ長い間居ただろう?時間が無い為に知る由もないが、
無知であるために無知なる行為をし、その果をもって輪廻の苦を受ける。一切皆苦であるこの世の慈悲を
再び受け生まれてくる。記憶はリセットされて何も思い出せない。子供の動きとなっている。が、心は一つ悠久繋がり、
輪廻されてきた行為の思い思いが統一されて、性質となって今の心が作られて、そのため、覚れれば時として思い出される。
縁あって生まれて、一つ一つ無知を克服し、魂の向上となれば、いつかの人生悟りに達し、完全なる仏となって、
清浄なる世界に永遠に住むこととなる。それが極楽であり、人の本来行きつくところの場である。
生命の絶対世界であり法則そのものの世界である。それはエネルギーの浄化された円満なる世界である。そのため永遠である。
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ただ

2013-10-06 | Weblog
花はただ咲いてただ散っていく。
誰が見る見ないに関わらず、ただただ廻り行く変化に対応しているだけである。
法が「唯」としてあるための法だからである。
だから、
私たちも「唯」としてあるものである。これといって何の目的のあるものでなく。
目的の有無も自由である。
時はただ過ぎ去り、人はただ流されて、ただ死んでいく。
あれよこれよと気をもんで生きるが、一切を捨て去って死んでいく。
何も持たず生まれ、何も持たず死んでいく、ただ生まれて生きて死んでいくものである。それが、
ただただ際限なく繰り返されていくだけである。時が流れているとするのも自由、ただまったりとあるという自由。

ただあるという自由が本質である。その自由が廻る自由、廻る自由がそれぞれの自由である。
唯あるというエネルギー(自由)の物語。
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