つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

慈愛

2013-01-03 | Weblog
神様も仏様も法則の下の存在である。
神様仏様と崇められる存在も本は人である。
卓越した能力、精神において達観に至った人達である。
並みの根性では耐えられない苦しみを味わい、
極められた力が具わったもので、その能力は人知計り知れないものである。
だから、超人的者として神様仏様として呼ばれ崇められていった。
しかしながら、法則には超とつく事柄が存在せず、
すべての事柄が法則によって作られているもので、
法則を知ることによってすべてが理解されていくものとなっている。
人が知らないでいることが起これば、それがまた、めったにありえないこと、
或いは、ありえないこととしての常識であれば驚愕し、超常現象として怖がるが、
法則の中には存在しうる事柄であるために、なんら普通な事なのである。ただ人が知らないでいただけである。
まだ百二百年前の刀を振り回していた頃に、現携帯電話なるものを見せ付けたなら、とても理解されないと同じように、
それこそ神様と恐れられるだろう。

進化の過程にあるだけで、法則を超えてしまうということは存在しないのである。

体験によって智慧を得て、苦しみを回避し、同じところにたどり着く術を知る。そして、
神と呼ばれ仏様と崇められるようになった人の愛情、その
先人の智慧によって方便が明かされ、普通の者にも到達できることを訓えた慈愛、それによって
誰でも悟れをことができるようになった。
般若心経である。
菩薩が唯一つ危惧したこと。それは、正しく理解して下さらんことを切に願うものであるとして、
皆に開かれた経であることを付け加えて開経偈とし、般若心経は説かれている。
間違って解釈してしまえば、決して悟ることができなくなり、文字に惑わされて、
地獄に落ちてしまう。して、
般若心経は、否定の経典として無我となり、すべての実体を否定して、誰一人悟れるものはいなくなった。
ただ、読経のための経となって、救いとなることはなくなってしまった。
誤って理解している人には、何の効力もない、功徳は無い。
コメント
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