つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

ある基準をつくるために・・・

2006-09-18 | Weblog
私は仏教徒ではありません。
クリスチャンでもありません。
何かを信心するものでもありません。かといって、
何かを信心しないものでもありません。

五体満足でなければ不幸せ?というものでもないでしょう。もしそうであれば、
五体満足であれば幸せ?ということになります。はたして、
現実はそうでしょうか?
他から見て、不幸せと思われることは、他のものさしだけで見たもの。
他から見て、幸せと思われることでも、そう見られた人は幸せとは限らない。
えてして・・・。
何かの基準で見た人は、そのつど喜怒哀楽に心ざわめき、安らぎを得ることがない
とおもわれる。
私は凡人であるために亦そう思う。
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幸せになるための道しるべ

2006-09-18 | Weblog
般若心経を正しく解することができれば、どの経典も難しいものではない。
ある本に「経典の一語一語を普通のことばのように字面(じづら)だけで
理解すると真意をつかめない」と書いてあった。
実に的を得ているためにメモっておいたのだが、どの本だったかは記憶にない。
この一行の文章はまったくそのとうりだと思う。
梵語は横文字である。それを縦文字である漢文に訳したために経としている。
訳されたものであることを示しているために経という。

梵語は正しく漢文に訳されて経典となっている。
正しく漢文に訳されたものを解するのに、また、日本語に訳すのに、文字どうり字面だけで訳しているために誤った訳となって、わけの分からないものとなってしまった。
わけがわからない為に、音を訳したものであるとして音写として、
その言葉の意味が梵語ではこうであるとして訳されている。
「偉大なる仏の智慧」とは何?
心経の末尾にある「羯諦羯諦・・・」などはまさにそのとうり、
理解できないために「いこう いこう・・・」と訳されている。
理解できないために真言であるとなってしまった。
悟った人の言葉であるために、到底凡人には理解しがたいものであるとして、
つじつまを合わせて訳された。
般若心経は大衆に説かれた経典である。だから難しいものであってはならない。
そのために大衆に理解されるように説くかれて、理解されたために、
すばらしい経典であるとして広まっていった。
ただ、惑わしい言葉であるために、言葉の文字にくれぐれも礙(さまたげ)られないように念を押している。それが「開経偈」である。心経の序文である。
「願わくば 如来の真実の意義をよく解されますように」と
「願解如来真実義」。
誤って解されて以来、心経はただのよいお経、読経のための・・・と、力の無いものとなっている。

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