温室内の温床で育っている茄子は、いよいよ本葉を広げ始めている。
手前は初めての真黒茄子、奥は例年おなじみの新長崎長茄子(といってもこの段階では見分けがつきませんが)。そろそろ大きいポットに鉢上げする準備を始めなければ。そうなると専有面積が何倍にも広がるわけだけれど、温室内にはまだその余地がない。先にキャベツやブロッコリィ、リーフレタスなどを畑に植えてしまってからということになりそう。
8年目なのに、まだこの辺りの段取りがぎくしゃくする。
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金曜、曇り時々晴れ、予報通り昼頃から雨。
朝:6時過ぎからごはん。
午前:机しごと、温室の育苗管理など。
午後:昼ごはんを早めに食べて、正午過ぎに薫と家を出る。
市街で少し用事してから、主に中山川土手を走って市西部の丹原町へ。30分ちょっとで「ちろりん農園」西川さん宅に到着。
13時半から、福島県川内村から丹原に移住されている
新妻秀一さんの話を聞く会。
愛媛有機農業研究会の西条支部(生産者グループ)の主催行事で、西川さんちの「第二縁開(えんかい)所」の囲炉裏を囲んで。
昨年1月に川俣町の佐藤幸子さんの話を聞いた会と同じく、こじんまりと。
当時、川内村の実家で農業を継いでいたという新妻さんは50代。
現在は中学校に通う子ども2人と共に地震発生の数日後に川内村を離れ、しばらくは埼玉県内で避難生活をされたのち、3か月ほど前に当地に来られた。その間のあれこれは聞けば聞くほどに涙ぐましく腹立たしく、同じ国に暮らす者として情けなく、だけれどそんな中でもよく生き抜いてこられ、いまこうして笑顔で振り返り、周囲も笑いの渦に巻き込むエネルギー。昔話などでは全然ないこのわずか2年の出来事、そして現在進行形の苦難に身を置く方の話は、こんな少人数で間近に聞くのが本当にもったいない気持ちになる。
話のすべてはとても書ききれないので、ひとつだけ。
ほうれん草のこと。
新妻さんは埼玉県内に避難中、何度か一人で村に帰ろうとしたそうだ。
というのも、実家にはほうれん草の苗がまさに定植を待つばかりというところで、そこまで育てるのにどれだけの手をかけてきたか。阿武隈の高地に位置する川内村は雪が深く、畑の雪解けを待って直播したのでは温暖な沿海部で育つ野菜に先を越され、ようやく出荷できた時には安値の憂き目を見る。そこで新妻さんはほうれん草も温室で育苗しておき、少しでもその差を縮める工夫をしていたのだとか。
その苗が川内で待っている……。
子どもたちを残して車のエンジンをかけ、まずは関越道に乗る。
しかし、高速道路の料金所が新妻さんを引き留めた。
所沢から福島へ、道一本ならそうはならなかったが、途中に料金所が2つあった。新妻さん曰く、不思議なもので車をいったんとめると熱が冷めていく。1つめで少しクールダウン、2つめでまた落ち着く。あとはUターンで子どもたちのもとへ。
「料金所が助けてくれた」、のだそうだ。
それでもいずれは川内村に帰るつもりだという。
田畑があり、山があり、それらはやむをえず諦めることになっても、先祖代々の墓がある。これは自分が守らなければならない、と。ただ、放射能の影響を受けやすい子どもたちは帰さない。自立すればこの地を基盤にして生きていく。自分の仕事は、そのための環境を整えてやることだと。
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話は尽きず、しかし時間があるので16時頃にお開き。
県の丹原庁舎に寄って、作成の終わった有機農業の調査票を提出。17時半頃に帰宅。
夜は、真のバレー仲間がお泊り。
みんなで晩ごはん。
25時頃まで机しごと。
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今日から3月。
午前中に春一番が吹いた、と発表されたそうだ。気温は高い感じがしていたけれど、家でPCに向かっていたから全然そんなことに気づかなかった。
雨は思いのほかたくさん降り、またしばらく畑が使えない。