唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(30)識食の体について・結び。

2017-09-17 12:54:48 | 阿頼耶識の存在論証
 
  識食の體について学んでいるのですが、このことは食を通して、相分の根拠は善悪を超えて(包み込んでと言った方がいいのかも知れません)、第八阿頼耶識が所依となることを論証しています。
 結論は、世尊の教説である『四食経』を以て、すべての有情は、みな食に依って住していると説かれるのである、ということです。
 『述記』は補足説明として、「本識に由るが故に、是の説を作して言く・・・」と、食が成り立つのは、本識である第八阿頼耶識であると説明します。
 本識は、先に述べましたように、一類である、三性が変化する六識とは対照的に無覆無記である。すべてを分け隔てなく無記として受け入れている、それが恒に相続し、三界に遍く存在しているという特徴を持っているのですね。
 このような理由から世尊は「一切の有情は、みな食によって生存している」と説かれるのです。
 「世尊、此れに依って、故(カレ)是の言を作す。一切の有情は食に依って住す」(『論』第四・三左)と。
 一切の有情とは三界に存在する者ということですから、二無心定の有情も、という意味になります。
 少し振り返りますと、
 六識には間断があるという点からですね、六識をもって食の體とすることは出来ないということでした。
 「謂く、無心定と熟眠(ジュクメン)と悶絶と無想天との中には、間断すること有るが故に。」(『論』第四・二右)
 つまり、前六識は無心定と熟眠と悶絶と無想天の中では間断するからである。
 本頌の第十六頌を受けて説明されています。
 「意識は常に現起す。無想天に生まれたると及び無心の二定と睡眠と悶絶をば除く。」(第十六頌)
 意識が起らない時があるのは、無想天に生まれること。無想定と滅尽定の二定と睡眠と悶絶の中では間断するからである、と。そして意識が起らないと意識を依り所としている前五識は当然起こることは無い。
 五位無心に間断がある意識が識食の体であるとすると、間断のある時に有情の身命を維持し保持するのは如何という問いが起こってくるのは当然のことですが、本科段は、間断のある識は識食の体とはなり得ないと部派の主張を退けています。
 では、無心の時は仕方ないとして、有心の時には識食の体なり得るのかと問題について、三性等は転易するところから、有心の時でも、識食の体とはなり得ないと部派の主張を破斥します。
 「設ひ有心の位にもあれ、所依と縁と性と界と地との等きに随って転易すること有るが故に。」(『論』第四・二右)
 「所依と縁と性と界と地」とは、所依の根と所縁の境界と三性(善・悪・無記)と三界九地の等(有漏・無漏)に随って転易(変化)することが有る、転易するものは識食の体とはなり得ないと述べています。
 理由は、前六識は一つには恒有ではない。二つには転易するからである。身命を維持し保持するのは、何時でも・どこでも・何があっても三界九地に遍在していなくてはなりません。それは恒有であり、転易が有ってはならないのです。それは第八識以外には無いのですね。随って、第八識をもって識食の体とするということになると説明されていました。
 ここで一つ問題が生じてきます。
 一切の有情の中に仏もは入るのかということです。答えは、仏は有漏無きをもって有情の中には入らないと説明します。
 
 
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