唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (80) 雑染と清浄(1)

2017-06-04 09:10:31 | 阿頼耶識の存在論証
 
 この掲示板の言葉、前半の「大事なもの」が清浄法で、後半の「いらないもの」が雑染法になりますね。
 第十理証において、雑染と清浄という言葉についての説明があります。少し読んでみます。
 「然も雑染の法に略して三種有り。煩悩と業と果と種類別なるが故に。」(『論』第四・十右)
 『述記』(第四末・三十五左)の説明によりますと、
 ・ 煩悩 — 「三界見修に有る所の煩悩を煩悩と名づけ」
  三界の倶生起・分別起の見惑・修惑のすべての煩悩を煩悩というのだ、と。
 ・ 業 — 「一切有漏善・不善の業を業と名づけ」
  一切の有漏の善業(人・天の果をもたらすもの)と不善(三悪趣の果をもたらすもの)の業を指します。
 ・ 果 — 「此の業が所得の総・別の異熟を果と名づく。」
  煩悩と業によって招来された果を指しますが、
  総報は人・天の果報であります真異熟、阿頼耶識の果相になります。
  別報は真異熟である第八識から生じた前六識の異熟果である異熟生をいいます。つまり、総報は人間という存在であり、別報は個人という存在ですね。
 雑染=有漏=苦をもたらすもの=漏れ出るものが有る=我という構図です。
 ここで分かりますことは、漏れ出るもの、つまり我が漏れ出るのですが、漏れ出る場所が、有漏の第八識であるということなんですね。
 有漏の第八識を依り所として苦悩の現在生を生きていかざるを得ないのです。我執ですね、我執が雑染法になりますから、所執の我はいつでも増上慢を生き、自分の都合だけを考えて暮らしています。たまには穏やかな日々もあると思っていますが、利害関係が生じない時は、穏やかです。利害関係が生じて来た時に、自他分別の顔が出てきます。普段は潜んでいるのです。自分の立場の正当性・固執化をもって生きているのが私です。これは妄想なのですが、妄想は迷うわけですね。何に迷っているのかといいますと、清浄に迷っている、「本当のことが分からないから、本当でないものを本当のものとして生きている」わけでしょう。求めているのですね。雑染は単に雑染ではなく、清浄に触れているからこそ、雑染・迷えるわけです。迷いがご縁ですね。迷いが無かったら、私たちは求めることも出来ないのです。
 迷える心は雑染ですが、求める心は清浄ですね。この心の根拠が蔵識である阿頼耶識なんだと論証しているわけです。

 清浄法については次回にします。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (79)

2017-06-02 20:20:05 | 阿頼耶識の存在論証
  
「しかれば、大悲の願船に乗じて光明の広海に浮かびぬれば、至徳の風静かに衆禍の波転ず。すなわち無明の闇を破し、速やかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す、普賢の徳に遵うなり。知るべし、と。 」(『行巻』)
 最後の理証になります。第十は心染浄証(シンゼンジョウショウ)
 「又契経に説かく、心雑染なるが故に有情雑染なり。心清浄なるが故に有情清浄なりと云う。若し此の識無くば、彼の染・浄の心有るべからざるが故に。」(『論』第四・九左)
  この一節は『維摩経』の中の言葉ですね。
 「心浄なるが故に衆生浄なり。心垢なるが故に衆生垢なり」と。
 第八識は、染・浄の所依となることを論証しているのです。この識が無かったならば、私たちは迷うこともできず、覚ることもできないのです。迷っていることがはっきりしますと、迷いを翻す運動が起こってきます、それが覚りにつながるのですが、自己正当化の中で、迷いの因を他に振り向けますと、迷っていることが覆われてしまいます、それが雑染と押さえられていることです。自己正当化の闇が見えないということですね。
 第八識を所依として、染と浄の心が現われてくるのですが、染と浄の二つの心があるのではないのです。覆われているのか、覆われていないのかですが、何が覆ってくるのか、第八識を覆ってくるものが問われています。惑・業・苦の三業の因果に依るのですね。
 大雑把に押さえますと、
 私の心が汚れてきまうと、私は汚れます、汚れた心で世界を感じますから、世界も汚れてきます。
 反対に、
 私の心が浄らかになりますと、私も、私が感じている世界も浄らかになりますね。
 この染・浄の矛盾した心を引き受けているのは、無覆無記性である阿頼耶識の世界なんですね。阿頼耶識は色づけがされていない純粋無垢な心です。心澄浄と云われていますのは、心は善か悪かではなく、無記であるということなんですね、そして無記は果相です。いのちの現在性だと思います。いのちはいつでも心澄浄である。ですから、意識が阿頼耶識に様々な色を着色するのですね。染にも、浄にもです。
           染
   阿頼耶識 〈
           浄
 ここのところをはっきりとさせるのが聞法でしょうね。法を聞くことに於いて生活が聞法になるのでしょう。生活即聞法、真宗の醍醐味ではないでしょうか。
 雑染は我執なのですが、我執が見えんですわ。でもね、我執が阿頼耶識に纏わりつきますと、煩悩が漏れます。ここを依り所としているのが有漏の世界です。この世界は偏に生死流転を繰返します。迷いの世界の現出ですね。
 後半は雑染と清浄について説明がなされています。次回にします。