色は境と相応するので、食とはならないことが論証されます。
「又色は麤著(ソジャク)にして根と相離せり、方(マサ)に能く境と為る、根を合せざるが故に是れ食(ジキ)に非ず。」(『述記』第四末・三右)
色は境と合せて、対象物でありますから、対象物をもって食とすることは出来ない、つまり、目の前に有る対象物が、身命を養い育てることは無いのだと。
では、声境・法境はどうであるのかといいますと、『述記』には説明がありませんが、『演秘』(第四本・三右)には、
「夫れ食と名づくることは、必ず先ず自根の大種を資益」することと述べています。
また、声境の体は虚なるもの(音であったり、空気の波動であったり)である。
また、意根などには段物は存在しない。
また、諸根は段食に資益される側(所取)である為に、段食ではない。
ここで、『述記』は問いを立てます。
資益の相についての問答です。
「問う、此の三を食とせば、自根に対すとせんや亦余識にも対するや。」
質問の内容は、此の三はそれぞれの認識する側である自根と自識のみを資益し、他の根や識などには資益することは無いのかということです。
香境 — 鼻根と鼻識
味境 — 舌根と舌識
触境 — 身根と身識
のみを資益するのかという問題です。
「答う、此の三腹に入って変壊する時、先ず自根を資けて資養を為し已って、然して後に乃ち能く諸根等を資けて、識を發して明利ならしむるを以て説いて名づけて食とす。要ず別に自識が所取にのみ対するというにしも非ず。」
答えは、そうではないと。
この三境は腹中に入って消化され、まずは自らの根、香境だと鼻根と鼻識を資益し、血肉とするわけです。その後に諸根や諸識を資けて資益するのである。そして識を發して明利(ミョウリ)、つまり、はっきりさせるのが食なのである。全ての根や識にたいして資益する働きをもち、それぞれの根からそれぞれの識を発生し明利にならしめるのである、と。
何か難しいことを云っているようですが、私達の食事の風景を思い出していただけると説明が付くように思います。
香境は匂いですね。味境は味わいです。其の根っこにあるのが触境です。この三がバラバラではなく和合して諸根に影響を与え、諸根をして明利にならしめるのです。如何に食事が大切な役割をしているのかが伺い知れます。
物質的に考えれば、対価を払って手に入れた物は私物であるという考え方は当然有ると思います。しかし、いくら対価を払っても、本来は手に入る物ではないでしょう。対価を通して、私の所まで届いた過程を思い馳せる所に、「いただきます」「ごちそうさまでした」という感謝の念が、身心を養い育ててくれる因になるのでしょう。これが段食の意味になるのではないかと思います。