唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (39)

2017-03-20 11:22:09 | 阿頼耶識の存在論証

 昨日は、執持・執受・執取について少し考えました。
 さらに考究を進めていきたいと思います。
 「阿陀那」の名を、三義を以て解釈している一段になります。
 『摂論』巻第一には、第八識を何故阿陀那識と名づけるのかという問いが出されています。
 「何の縁にて此の識を亦復説いて阿陀那識と名くるや、一切の有色の根を執受するが故に、一切の自体の取る所依なるが故なり。所以は何ん、有色の諸根はこの執受に由りて失壊(シツエ)すること有る無く、寿を盡すまで随って転ず。また相続して正しく結生する時に於て彼の生を取るが故に、自体を執受す。是の故に此の識も亦復説いて阿陀那識と名く。」と。
 
 参考文献を挙げます。無性釈の『摂論』大正31・383b~c。第一巻所知依分第二の一
 「論曰。何縁此識亦復説名阿陀那識。執受一切有色根故。一切自體取所依故。所以者何。有色諸根。由此執受無有失壞盡壽隨轉。又於相續正結生時。取彼生故執受自體。是故此識亦復説名阿陀那識 釋曰。執受一切有色根故。等者顯聲轉因以能執受。一切眼等有色諸根。安危共同盡壽隨轉。是故説名阿陀那識。若不爾者應如死身即便失壞。一切自體取所依故。等者謂是一切。若一若多。所有自體取所依性。若色等根未已生起。若無色界自體生起名爲相續。攝受彼故名正結生。受彼生故。精血合故。非無阿頼耶識而有執受一期自體。譬如室宅院攝光明。是一期自體習氣所熏故。」
 無性の釈は、
 「「一切の有色(ウシキ)の根を執受(シュウジュ)するが故に」等とは、声(ショウ)の転ずる因を顕す。能く一切の眼等の有色の諸根を執受するを以て安危(アンギ)を共同(グウドウ)して寿(いのち)を盡すまで随転す。是の故に説いて阿陀那識(執持識)と名く。若し爾らざれば応に死身の如く即ち失壊すべし。「一切の自体の取の所依なるが故に」等とは、謂く是れ一切の、若しくは一、若しくは多の有らゆる自体の取の所依の性なり。若しくは色等の根の未と已との生起(未だ生起しないものと、已に生起しているもの)、若しくは無色界の自体の生起を名けて相続と為す。彼を摂受するが故に「正しく結生す」と名く、彼の生を受くるが故に、精血合するが故なり。阿頼耶識無くしては一期の自体を執受すること有るに非ず。譬へば室宅院の光明を摂するが如し。是れ一期の自体の習気の熏ずる所なるが故に。」

 『摂論』では、「諸法の種子を執持し」という釈はありません。若し阿陀那識の種子をいうのであれば、執持というのである、と。これが第一義です。理由がですね、種子を失うことがないからである、と。種子と有身根を保持している面から阿陀那識というのですが、「無始よりこのかた界たり」、界は種子のことであると釈されていました。受といわないのは、覚受がないからである。色根と依処とにおいては執受という。覚受は感覚のことです。阿陀那識は種子を執持し有根身を執受すると云われています。
 阿頼耶識の所縁は処と執受でした。種子と有根身を執受すると云われていましたが、阿陀那識ということにおいては三義があると、細に入って分析をしています。種子と有根身は生理的関係にありますから、種子が現行することにおいて身は感受作用を起こします。
 色根と依処は、色根は勝義根です。五根のことを指します。勝義根と扶塵根とに分かれますが、根を依処としてと云う場合は、勝義根を指すのです。依処は五根の集合体の身体ですから、根が傷つけば身は痛みを感じますね。
 ですから、「覚受を生ずるが故に。」(『述記』)と釈されているのです。
 有色とは、五蘊の中の色蘊の色(物質的なもの)ですが、有色根は、感覚器官、眼根・耳根・鼻根・舌根・身根を指します。そしてこの有色根を有した生きものを有色有情といいます。「執受するが故に」というのは、有執受で、心・心所によって維持されるもの、有根身のこと、身体です。
 執取は「若し初に結生し後に生を相続するをば名けて執取とす、諸有を取るが故に。」(『述記』)と釈されます。胎中に入って再び生を結び、生をつづけることを執取と云っています。私の処まで届いた寿ですね。(命ではなく寿でいのちを押さえています)寿は相続を表しています。私の処まで届いてきた寿の背景には、生まれ変わり、死に変わりしてきた輪廻転生という面から執取と押さえ、執持と執受と執取の三義を以て阿陀那識と名けるのだ、と。
 取は認識する、知覚すると云ういみなのですが、十二支縁起で云われます取は広義の煩悩ですね。輪廻転生としての阿陀那は煩悩を持って生まれてきたと云うことに通ずるのでしょうか。異熟因が異熟果を引く時にですね、迷いの生存は迷いの種子をもって相続され、転依するチャンスがなかったならば、再び結生相続をしていくということになるのでしょう。
 今の言動が明日の身を造っているということに思いを馳せねばなりませんね。一瞬の内に六道輪廻しているともいわれます。六道輪廻は外界に在ると云うことでもなさそうです。

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