憍は、自分自身に深く執着を起こし、酔傲する、酔はようこと、傲はおごることですから、自分自身に酔いしれて自分自身に驕り深く執着を催す有様ですね。憍酔の者は、何を障礙し、何を生長させるのかが問われるわけです。
・ 「能く不憍を障え、染の依たるを以て業と為す。」
・ 「憍酔の者は、一切の雑染の法を生長するが故に。」
二つの理由を挙げています。
一つ目の理由は、よく不憍を障礙(妨げる)して、染法(一切の有漏法。惑・傲・苦の雑染法)の依り所となることを以て業とする心所である、ということです。不憍とは何かという問題もありますが、憍の解釈から伺いますと、「自の盛んある事に対して深く染著を生じ、酔傲することのないことを以て性とし」そして、「不憍は憍を対治して、善法の依り所となることを以て、その働きとする心所である。」と云えましょう。
こういう所を読ませていただきますと、法蔵菩薩の願行が表裏の如く、「然るに世人、薄俗にして共に不急の事を諍う」事実が浮き彫りにされてくるわけです。私の立場は、正しいと思っていますから、「不急の事」は外からやってくることであり、外に責任があるということになりますから、事実が見えないのです。この事実に眼が開かれるのは、仏法に遇うことしかないのですね。
法蔵比丘の無始より以前の兆載永劫における「欲覚・瞋覚・害覚を生ぜず。欲想・瞋想・害想を起こさず。・・・」という御修行の中から見えてきた世界ですね。見えたら、世界は「ありのままであった」、自ずから然らしめた世界であったということなのでしょう。
いわば、見えたら「覚」は成就していたということではないですか。本願成就というけれども、因位法蔵比丘の因願の中に、既に成就は具足されているのでしょう。こんなことを思わざるを得ないのですが、妄想でしょうか。
私たちは、曠劫以来、ありのままの生き方を歩んできたんではないですか。自覚というでしょう。自らに覚めることですね。何から覚めるのかですが、迷いの生存に覚めることと、ありのままの生存に覚める事だと思います。私たちは、無始以来、有漏の種子を積習してきたわけです。「虚妄熏習の内因力の故に、恒に身と倶なり」と。無始以来と云いますけれども、目覚めは「今」ですね。「今」自分が迷ってきた事実を知ることを通して、永遠の過去が明らかになるのでしょう。明らかになってみれば、
「諸の有情は無始の時より来た無漏の種有りて、熏習するに由らず、法爾に成就すること有り。・・・・有漏法の種も此に類して知るべし。」と。
種子生現行といいますが、有為法、有為転変していますから、有漏の種子が条件が整えば有漏の現行が生ずるということです。有漏の現行が因となりますから、熏習されます種子は有漏の種子となり、「本識の中に親しく自果を生ずる」、一類相続としてですね。唯識は、この有漏の種子と無漏の種子は同時進行だといっているわけですね。
これは、迷いと覚りとは表裏のように、相離れるものでは無いということを顕しているのではないでしょうか。迷いは覚りの於いて迷っている。覚りは迷いの事実がある限り転依をもとめて働いている、それは曠劫以来であるということなのでしょう。
最近横道が多いですね。
本論に戻ります。
「此れも亦貪愛の一分を以て体と為す。貪に離れて別の憍の相用無きが故に。」(『論』第六・二十六右)
(此れもまた、貪愛の一分を以て体とする心所である。何故ならば、貪に離れては別のものとして存在する憍の体も作用もないからである。)
憍は、一切の煩悩・随煩悩の所依となる、と云う所は注目されるべきだと思います。自らの驕り高ぶりは自らへの貪り、貪愛です。貪愛は他との比較ではないのです。ただただ我が身かわいさです。この独りよがりが、すべての迷いの依り所となっているのです。自分が幸せになろうと思って、自分を縛り、苦しめているという顚倒が起ってくるわけですね。正に、目覚めなさいという催促が私の所までとどいているんですね、そこに気づきを得ないといけません。