唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 第四 随煩悩の心所について (24)  小随煩悩 諂 (2)

2015-06-21 13:48:17 | 第三能変 随煩悩の心所
 
 諂うことですが、自分の意に反してですね、「誑」の心所をうけて、「名利を得るために、他を欺き、自分をつくろうわけですね」その「つくろいあざむく」具体性が「へつらう」という行為になって現われてきます。「誑」と「諂」は同じような心所ですが、
 室町時代の興福寺の学僧光胤(1396~1468)が著した『唯識論聞書』には
 「誑は、徳が無いのに徳があるように振る舞い、諂は、相手よりへりくだって、相手を尊重しているかのように振る舞うことである。そして時と場合によって自分を曲げる(諂曲)ものですが、誑は状況変化はなく、相手に合わせることはない。」と解釈をしています。つまり誑は常に頭を上げているのに対し、諂は状況変化に応じて頭を下げている状態ですね。
 「謂く、諂曲(てんごく)の者は他を網悁(もうけん)せむが為に、曲げて時の宜しきに順(したが)い、矯(かたま)しく方便を設けて他の意を取り、或は己が失を蔵せむが為に、師友の正しき教誨(きょうけ)に任せざるが故に。」(『論』第六・二十五左)
 悁 ― 「えん」・「けん」と読み、いかる、うれえる、いらだつの意味がある。忄は心を表します、音符は、ちいさなぼうふらの象形。心が小さくなるという。「網」はかける。網悁とは、他者を錯乱・混乱させて己の思うように導くことで、他者の心を網で捕えて自分の思いを実現したいという卑屈な心をいいます。
 (つまり、諂曲の者は、他者の意を網悁する為に、その時の状況変化に応じて、自分の本心を曲げ隠して偽り様々な方便を以て他者の意を取り込み、或は己の過失を隠す為に、師や友の教誨を受け入れないようにするからである。)
 『述記』の釈は、
 「論。云何爲謟至謟相用故 述曰。險者不實之名。曲者不直之義 爲網㥜他者。顯揚云爲欺彼故謟。或欺於彼而陵網於彼。」(『述記』第六末・七十三右。大正43・458c)
 (「險とは不実の名なり。曲とは不直(不正直・不明・不顕にして解行が邪曲なるが故に名づけて諂と為す)の義なり。他を網悁(かけこめん)が為にとは、顕揚に彼を欺かんが為の故に諂あり。或は、彼を欺いて彼を陵網するなり。)と。
 私たちは、不実であり、不正直であることを隠したいのですね。見透かされるのを恐れている。その為に、自分の不実や不正直さを指摘されるのを恐れて、他に対し媚び諂い、他者が自分にとって良い評価を与えてくれることを望んでいるわけですね。
 「師友の正しき教誨(きょうけ)に任せざるが故に。」厳しい言葉です。逆に恨みますからね。聞く耳持たんということはこのことです。

第三能変 第四 随煩悩の心所について (23)  小随煩悩 諂 (1)

2015-06-21 09:51:49 | 第三能変 随煩悩の心所

 お詫び
 私事で申し訳ありませんが、諸般の事情により明日より約一週間ブログの掲載ができなくなりました。せっかくお読みいただいているのに申し訳のないことですがお許しください<m(__)m>
 本科段より小随煩悩の第八、諂(てん・だましへつらうこころ)の心所に入ります。
 「諂ハ、人ヲクラマカシ迷ハサンガ為ニ、時ニ随ヒ事ニ触テ、姦(カタマ)シク方便ヲ転(メグ)ラシテ人ノ心ヲトリ、或ハ我ガ過ヲ隠ス心也。世ノ中ニ諂曲(テンゴク)ノモノト云ハ此心増セル人ナリ。」(『二巻鈔』)
 諂という心所は、人をあざむき、いつわりの言葉をめぐらして人をまるめこみ、人をだます心であるといわれています。ここでいう人とは、他の人を含めて、自分の事でもあるのですね。自分をもだまして、あざむいている心なんです。どのようにだましているかと云いますと、「時ニ随ヒ事ニ触テ、姦(カタマ)シク方便ヲ転(メグ)ラシテ」といいます。
 姦は矯しと同意になり、いつわるという意味になります。自分の過失を隠す為に、偽りの方便をめぐらして人をまるめこみ、だます心だといわれています。でもね、こんなこと日常茶飯事ではありませんか。素直に自分を見つめると頷けます。
 昨日は五組の同朋の集いが難波別院で勤まりました。講師の一楽師のご法話の中から問いをいただきました。それはいつでも自分の物差しで計ってしまう自分が居ることに気づけよという如来の働きに触れることが大切ですね。聞いていて本当にその通りやなと思いつつ、自分の物差しで計ってしまう自分が居るんですね。このような自分が世を穢すのでしょうね。世を穢しているのは自分だということの頷きが大切なことなのでしょう。そういえば、処(場所)は自体分が外に投げ出した所縁の相分なのでした。器世間の全体が阿頼耶識が変現したものなのですね。未だ見ぬ世界をも変現しているのが阿頼耶識なんです。広大無辺際なのですね。一楽先生は、広大とは、計ることのできない世界、すべてを受け入れている世界であると教えてくださいました。そこに触れた時に、私は如何に小さい、何時でも自分の思いで天秤にかけて生きていることであろうかと教えられるのです。
 「云何なるをか諂と為る。他を網(こめ)むが為の故に矯しく異儀(いぎ)を設けて険曲(けんごく)せると以て性と為し、能く不諂と教誨(きょうけ)とを障うるを以て業と為す。」(『論』第六・二十五左)
 (どのようなものが諂の心所であるのか。諂の心所とは、何か(例えば魚を網にかけて捕えるように(「網」にカケンカと注釈されています。)自分の本心を隠して相手の気にいられるように媚びる心なんですね、それを「へつらう」と言っています。いつわり、まげることを以て本質とし、よく不諂と教誨とを障礙することを以て業とする心所である。)
 異儀とは「ことなるかたち」であり、険曲は「いつわり」である。「網」は仕掛けですね。相手の意に添うように応じて自分の態度を変化させ偽りの姿を現して相手を騙そうとしている態度をいっています。教誨とは、教誨師といわれている方々がおいでになりますように、過ちを犯した人の過ちを悔いあらためさせる役割を持ったことですね。教誨を障えるというこは、諂は教誨を受け入れられないように働いている心所であるということですね。