諂うことですが、自分の意に反してですね、「誑」の心所をうけて、「名利を得るために、他を欺き、自分をつくろうわけですね」その「つくろいあざむく」具体性が「へつらう」という行為になって現われてきます。「誑」と「諂」は同じような心所ですが、
室町時代の興福寺の学僧光胤(1396~1468)が著した『唯識論聞書』には
「誑は、徳が無いのに徳があるように振る舞い、諂は、相手よりへりくだって、相手を尊重しているかのように振る舞うことである。そして時と場合によって自分を曲げる(諂曲)ものですが、誑は状況変化はなく、相手に合わせることはない。」と解釈をしています。つまり誑は常に頭を上げているのに対し、諂は状況変化に応じて頭を下げている状態ですね。
「謂く、諂曲(てんごく)の者は他を網悁(もうけん)せむが為に、曲げて時の宜しきに順(したが)い、矯(かたま)しく方便を設けて他の意を取り、或は己が失を蔵せむが為に、師友の正しき教誨(きょうけ)に任せざるが故に。」(『論』第六・二十五左)
悁 ― 「えん」・「けん」と読み、いかる、うれえる、いらだつの意味がある。忄は心を表します、音符は、ちいさなぼうふらの象形。心が小さくなるという。「網」はかける。網悁とは、他者を錯乱・混乱させて己の思うように導くことで、他者の心を網で捕えて自分の思いを実現したいという卑屈な心をいいます。
(つまり、諂曲の者は、他者の意を網悁する為に、その時の状況変化に応じて、自分の本心を曲げ隠して偽り様々な方便を以て他者の意を取り込み、或は己の過失を隠す為に、師や友の教誨を受け入れないようにするからである。)
『述記』の釈は、
「論。云何爲謟至謟相用故 述曰。險者不實之名。曲者不直之義 爲網㥜他者。顯揚云爲欺彼故謟。或欺於彼而陵網於彼。」(『述記』第六末・七十三右。大正43・458c)
(「險とは不実の名なり。曲とは不直(不正直・不明・不顕にして解行が邪曲なるが故に名づけて諂と為す)の義なり。他を網悁(かけこめん)が為にとは、顕揚に彼を欺かんが為の故に諂あり。或は、彼を欺いて彼を陵網するなり。)と。
私たちは、不実であり、不正直であることを隠したいのですね。見透かされるのを恐れている。その為に、自分の不実や不正直さを指摘されるのを恐れて、他に対し媚び諂い、他者が自分にとって良い評価を与えてくれることを望んでいるわけですね。
「師友の正しき教誨(きょうけ)に任せざるが故に。」厳しい言葉です。逆に恨みますからね。聞く耳持たんということはこのことです。