唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 (14) 根本煩悩の体と業について (12) 疑の心所 (1)

2014-03-28 22:50:44 | 心の構造について

 疑の心所について

 「云何なるをか疑と為る。諸の諦と理との於(ウエ)に猶予するを以て性と為し、能く不疑の善品を障うるを以て業と為す。謂く、猶予の者には善生せざるが故に。」(『論』第六・十三左)

 どのようなものが疑の心所であるのか。それは、諸の諦と理とに対して猶予することもって性とし、よく不疑の善品を障碍することをもって、その働きとする心所である。つまり、猶予の者には善が生じないからである。

 「猶予の者には善生せざるが故に」という、心して聞いていかなければならない言葉です。

 簡単に言えば、仏法を疑っているということなのでしょう。仏法を疑うことが、善を生起することがないという厳しい指摘になっているのでしようね。

 「どのようなものが疑の心所であるのか。それは、諸の諦と理とに対して猶予することもって性とする心所である。」と説かれていますが、「諸の諦と理」とは、事と理のことで、事と理に対して猶予する心所が疑であるということなのです。

 「疑は諦・理に迷って猶予すと説く。」 具体的には「『瑜伽論』巻第五十八の中に五相の別なるに依る」と説明されています。

 「謂く他世と作用と因果と諦(四諦)と宝(三宝)なりと。此の中に諦と言う。亦彼を摂すること盡せり。理のごとく思うべし。即ち理と事とを縁ず。倶に是れ疑なり。然るに杭を疑って人と為すは此の疑惑に非ず、或は異熟心等なり。」(『述記』第六末・六右)

 他世とは、過去・未来の相、作用は、父母から受けている恩など、それと四諦と三宝に対して猶予することを疑であると『述記』は説明しています。「迷って」と述べられていますが、迷いは諦・理に迷っているのですね。私たちが迷乱しているのは、日常の出来事の中での良し悪しに翻弄されているのではなく、四諦の道理を疑っていることから生じてきているものなのですね。

 仏法を聞いて頷くということは、

 「『華厳経』(入法界品・晋訳)に言わく、この法を聞きて、信心を歓喜して疑いなき者は、速やかに無上道を成らん、もろもろの如来と等し、となり。」(『信巻』真聖p230)

 と説かれていますが、仏法との関係性に於いて、疑の心所が述べられていることが解ります。しかし、仏法を疑うということも大変大事なことなのです。もう少し突っ込んでいいますと、疑うということ自体が仏法に触れていることなのですね。本当の疑いは、疑いすら知らないということ。これを無明と押さえられているのでしょう。

 「しばらく疑問を至してついに明証を出だす。」(『信巻』真聖p210)

 盲目的に仏法を信ずるということに対する一つの警鐘でもあるわけですね。疑ってみるということも大切な作業になります。「しばらく疑問を至して」というところからはカルトは生み出されないでしょうね。盲目的に、ということがすでに煩悩ですからね。隠されているのは、自分にとって利益がある、という判断ですね。恒に騙されたということが背景にあるのではないでしょうか。ですからカルトはですね、背景を見破られないように洗脳するわけです。

 集団的自衛権ではないですが、カルト外との接触を嫌います。横のつながりにおいて縛っていくわけです。そして従順なる縦社会です。その縦社会の構造はスパイダーマンのようですね。つまり、カルトから抜け出せないような巧妙な網を仕掛けているのですね。これは仏法でもなんでもないんですが、信者さん同士が結婚すると、一方がカルトに疑いをもちますと離婚になりますし、子供さんですと、いじめの対象になっていきますね。横のつながりを密にすることにおいて集団から抜け出すことが出来ないように仕掛けているのです。

 

 仏法に触れて、聞法し、「もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かえってまた曠劫を径歴せん。」(『総序』) という自覚が大切なことになってきます。  (つづく)