唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変  受倶門 (11) 三受について 『雑集論』を引く

2012-12-13 23:04:49 | 心の構造について

 「『雑集論』に説かく、若し欲界繋の任運の煩悩の悪行を発すは、亦是れ不善なり、所余は皆是れ有覆無記なりという。故に知ぬ、三の受に各々四有る容し。」(『論』第五・二十二左)

 『雑集論』には「欲界繋の任運の煩悩が悪行を起すのは不善であるといい、しかし、その他はすべて有覆無記である」という。
 以上によって、三の受に各々、四性があることがわかるのである。)

  「論。雜集論説至各容分四 述曰。雜集第四卷初。此非集論是雜集文。欲界煩惱任運起者。能發惡行是不善。所餘不發惡行是無記。身・邊二見及此相應。即修道不發惡行之惑。五十八云倶生薩迦耶見唯無記等。身・邊二見唯不發業與三受倶。非憂是苦。餘三通二性 此五識中如何相状 今以義准。依縁起經。欲界繋貪信所伏故有覆無記。即在意識有覆心後引生五識貪・癡二種。可有此性。如率爾等五心中意是染淨者。意識爾時但起有覆。不可等流五識乃是不善・無覆攝。又非有覆意識不引五識生故。故知五識定有有覆。以此爲正應理稍通。故總結云容分四等。」(『述記』第五末・八十二左。大正43・423c~424a) 

 (「述して曰く、『雑集』の第四巻の初なり。此れは『集論』には非ず。是れ『雑集』の文なり。欲界の煩悩の任運に起こるは、能く悪行を発するは是れ不善なり。所余の悪行を発さざるは是れ無記(有覆無記)なり。身・辺ニ見と及び此れと相応とは、即ち修道の悪行を発さざる惑なり。
 五十八に云く。倶生の薩伽耶見は唯だ無記なり等と云へり。身・辺二見の唯だ発業せざるは、三受と倶なり。憂に非ず、是れ苦なり。余の三は二性に通ず。
 此の五識の中は如何なる相状ぞ。今、義を以て准ずるに、『縁起経』に依るに、欲界繋の貪・信に伏せざるが故に、有覆無記なりと云へり。即ち意識の有覆心の後に在って引生せらるる五識の貪・癡の二種に此の性有るべし。卒爾等の五心の中に意の是れ染・浄なるは、意識は爾の時に但だ有覆のみを起こす。等流の五識は乃ち是れ不善無覆に摂むべきものにあらざるが如し。又、有覆の意識は五識を引て生ぜざるに非ざるが故に。
 故に知る、五識にも定んで有覆有り。此れを以て正と為す。理稍通すべし。故に総じて結で(三の受に各々)四に有る容し等と云う。」)

 『述記』に「五十八に倶生の薩迦耶見は唯(有覆)無記なり等と云えり。身・辺二見の唯業を発さざるは」、数々現行するが故に、極めて自他を損悩する処に非ざるが故にと。『雑集論』巻四に云う、余は無記とは是れ発業の余なり。倶生の身見は既に無記性なり。余の中に摂む、業を発すこと能わざるをもってなり。辺見も亦しかなり。(『演秘』)

 『瑜伽論』第五十八に「倶生の薩迦耶見は、唯だ無記性なり、数々現行するが故に、極めて自他を損悩する処に非ざるが故なり。」と説かれています。

 三界の中の欲界は欲望渦巻く世界ということなのですが、この欲望渦巻く煩悩が「諸々の悪行の安足する処」なのです。ですから欲界とは悪行が安息する場所ということになります。欲望渦巻くという事は不善ですから、悪趣に往くのです。この煩悩をもって依り処とするということは、身・語・意の三業は当然緒の悪行を作ることになり、増長していくことになるのです。またこの煩悩がある限り善性を覆い隠して不善性をもたらすといわれています。『観無量寿経』の「厭苦縁」から「欣浄縁」に説かれる一節ですね。「世尊、我宿何の罪ありてかこの悪子を生める。世尊、復何等の因縁有りてか提婆達多と共に眷属為る・・・」と自らを善としての悲痛ですが、善導は「夫人既に自ら障り深くして宿因を識らず、今児の害を被むる。是れ横に来たれりと謂うて、願わくは仏の慈悲我に径路を示したまえと言うことを明かす」といっています。「自ら障り深くして宿因を識らず」と貪・瞋・癡の煩悩の障りが深いことを韋提希夫人は知らないという事です。このことは何も韋提希夫人一人の問題ではなく、一切衆生の問題を韋提希夫人に託して語られているものでしょう。「欲界の煩悩は諸悪の安足する処」なのです。むしろこの発言は人間として当然の結果なのでしょう。では何故このことが苦を厭うことになるのか、ということですが、ここに仏陀の存在がありますね。仏に遇うているということが苦を厭い、浄を欣う縁になるのですね。仏陀を前にして仏に恨み節を露呈するのです。仏をも恨まずにおれないという苦悩です。これが縁になり、「唯、願わくば世尊、我が為に広く憂悩なき処を説きたまえ。我当に往生すべし。」苦の内容は憂いなのですね。憂い無き処を願うわけです。そしてこの世のことを「閻浮提・濁悪世」といっています。この処を楽わず。何故かというと「この濁悪処は地獄・餓鬼・畜生盁満して、不善の聚多し。」といわしめています。仏陀を前にしてという所が大切なことになりますね。仏陀を介在しなければ、ただの愚痴です。そのことから浄を願うという事は起こり得ません。厭苦から欣浄へという転換のところに仏陀の大悲心が働いているのですね。そして仏陀の大悲心に触れた時に「願わくば我未来に悪声を聞かず、悪人を見ざらん」という願になるのです。唯識で今、くどくどといっていることは、正にこのことを明らかにしたいということに他ならないと思います。薩迦耶見(身見)は有覆無記であるということが明らかにされているという事は、善でもなく不善でもなく煩悩に覆われているけれども無記性であるということが大事なところだろうと思います。