唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 心所相応門 (17) 心所について

2012-11-27 20:44:08 | 心の構造について

 五位の一々について説明する。
 初めに遍行と別境について説明し、後に善と煩悩と不定のすべてを説明する。

 横道にそれますが、「境」ですね。阿頼耶識の相分です。相分とは何を示しているのかということなのですが、これは見分の働きですね、見分が見分の中に相分を映じているわけです。見分が主であれば、相分は客であるのですね、見るということは、見られる対象があるのですが、その対象は見るという働きの中に、すでに自分が作り出した映像を見て相分としているのです。ですから、見分はイコール相分なのでしょうね。見分・相分と分けるから解らないことになるのでしょう。外境が有って認識が成り立つと思っているのですが、そうではなく、外境は認識が成り立つ条件(縁)なのでしょう。そして認識が成立する時は、その仲介として我が全分に偏在して働いているのでしょうね。恰も水面下で浸透しているかのごとくです。そのことが自覚できた「時」に「曠劫より已来常に没し常に流転して出離の縁あることなし」という本来の自己に出遇うことができるのではないでしょうか。「思」の心所が大切な鍵になるようです。
 第七末那識が阿頼耶識の見分を縁じて我と為すということが頷けるのです。阿頼耶識の相分は本来無いわけですからね。

 『論』に戻ります。

 「五が中に遍行には四の一切を具す。別境には唯だ初の二の一切のみ有り。」(『論』第五・二十一右)

 (前科段に述べられたように、『瑜伽論』に説かれている五位の中では、遍行は、四つの一切を備える。また別境はただ初めの二つの一切のみを備えるのである。)

 昨日の『瑜伽論』の文をみていただければ、よく理解されるものと思います。遍行は四つの一切を備える。別境はただ初めのニつの一切のみを備えるのである。即ち一切性と一切地を備える。何故に一切時と一切倶を備えないのかといいますと、別境はすべての境を認識しないので、一切時の一切の認識対象を認識するときに必ず起こる一切時を備える事はなく、また相続しないので、無間断である一切時を備える事はないといいます。一切の心有る時には必ず起こるのが一切時でありますから、別境は心王が生起する時に必ずしも起こることはないので、一切時を備える事はないということになります。また別境の心所が起こる時には必ずしも四つの一切が並び起こるとは限らないので、一切倶を欠き、一切倶を備える事はない、と云う。

「論。五中遍行至唯有初二一切 述曰。一一如彼説。遍行具四。無處無故。別境有初二。不縁一切境。亦非相續。非心有即有。故無時也。又此未必並生無倶。」(『述記』第五末・七十八右。大正43・422c)

 (「述して曰く。一々彼に説くが如し。遍行には四を具す。処として無きことは無きが故に。別境には初めのニのみ有り。一切の境を縁ぜず。亦相続するもの非ず。心が有るとき即ち有るにも非ざるが故に時無きなり。又此れ未だ必ず並生するものはあらざるをもって倶なることなし。」)