唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 所依門 (65) ・ 倶有依 (41) 浄月等の説を述べる

2011-03-30 22:43:05 | 増上縁依(倶有依)

 
  
 
 昨日の参考文献 『述記』に依る執受の説明を読んでみます。
 「執受有二。謂諸種子。及有根身」(『論』第二・二十五左)
 
 「執受義者、執是摂義、持義受是領義。覚義摂為自体、持令不壊、安危共同、而領受之、能生覚受、名為執受、領受境也。」(『述記』第三本・三十一右)
 (「執受に二有り。謂く諸の種子と及び有根身となり。」)
 (「執と云うは是れ摂の義、持の義なり。受と云うは是れ領の義、覚の義なり。摂して自体と為し持て壊せざらしむ。安危共同にして之を領受して、能く覚受を生ずれば、名づけて執受と為す。領して境と為すなり。」)
 
 執とは執摂の義・執持の義、受とは受領の義・受覚の義である。第八識は種子と有根身とを執摂して自体と為して、執持して壊せざらしめ、之を受領して境と為し、根をして能く識の覚受を生ぜしめる。故に第八識は能執受であり、種子・五根は所執受である。そして五根は能生覚受であり、五識は所生覚受である。第八識は種子と有根身とを摂して自体と為し、保持して壊さず、共に安と危を同じくするから執受と名づけるのである、と。
 
 『論』には「此の二は皆是れ識に執受せられ摂して自体と為して安・危と同じくするが故に。」と述べられています。安とは安心・善ですね、反対に危は危険・悪ということでしょう。この安・危を同じくするということは、種子と有根身と阿頼耶識は恒に一体となって働く、動いていくということです。そして大事なことは執受は所縁であるということ。「所変を以て自の所縁と為す」といわれているところです。所縁は識の所変であるということ。私が今見ている対象(境)は私の心によって変えられたもの、と。主観と客観が有るのではなく、主観によって、変化したものを見ているということです。変化したもの、それが所変です。「所縁は所変なり」と。恒に私は私の主観で捉えた対象を見ているのですね。
 
 少し脱線しましたが、本論に戻ります。
 第二に経を引く。『楞伽経』の文
 「契経に説けるが如し、阿頼耶識は、業の風に飄せられて、遍く諸根に依って、恒に相続して転ずという。」(『論』第四・十九右)
 (『楞伽経』に説かれている通りである。阿頼耶識は業の風に吹かれて、遍く諸根に依って恒に相続して生起し活動する、と。)
 飄(ひょう) - つむじ風
 第八識が五色根を倶有依とするという証拠を『経』を引用して証明しています。経とは『楞伽経』第九であると『演秘』は述べています。「遍依根と云うは、五識に異なるが故に、所有の根に随って、皆能く依るが故に。」(『述記』第四末・八十三右)第八識が遍く五色根を恒に執受して活動するのは、五色根すべてを倶有依としているからである、というのは、五根が第八識から遍く執受されていることを以て、五根を第八識の倶有依としている。その証拠が『楞伽経』の文であると。
 尚、『楞伽経』の文面については異論のあるとことであり、『述記』及び『演秘』にはその間の事情が説明されています。今は割愛します。