第三能変 第九 起滅門 ・ 無想天 (9)
― 無想天に意あることを明かす ―
「『瑜伽論』に説かく。若し彼こに生ずるときには、唯だ入のみにして起せず。其の想の若し生ずるときに彼こより没すと云うが故に」(『論』第七・十一右)
(意訳) 『瑜伽論』第十二巻(正蔵30・340)の無想定を解釈するなかに説かれている。第四静慮に生ずるときにはただ無心にして有心を起こさない。しかし無想定が生ずる時、即ち初生のときには心有ることを証するのである。その想がもし生ずるとき、彼より没するというのは、まさに死せんとするとき無想天より堕落するときには、心有りということである。と説かれている。
「述曰。第十二巻に無想定を解するなかに説く。(若し彼に生ずるときには、ただ入るのみにして起こさず)とは、即ち初生は有心なることを証す。(その想がもし生ずるとき、彼より没するが故に)とは、即ち将に死せんとするとき有心なることを証す。すでに論文を挙ぐ。つぎに難をあげて曰く。」(『述記』第七本・五十八右)
『瑜伽論』第十二巻(正蔵30・340)の記述
「云何が無想三摩鉢底なる。謂く已に遍浄までの欲(欲界より第三静慮の最上位である遍浄天に至るまでの貪欲)を離れ(無想定に入る)、未だ上欲(第四静慮以上の貪欲)を離れず、永出離想の作意(三界を出離して涅槃に入ろうとする動機)を先と為して諸の心心法滅するなり。
問う、何の方便を以て此の等至(三摩鉢底)に入るや。
答う、想は病の如く、癰(ようーはれもの)の如く、箭(や)の如しと観ず。第四静慮に入りて背想作意(はいそうさい ー 一切の想を除去する働き)を修し、生起する所の種々の想の中に於て厭背(おんはい ー 忌み嫌うこと。涅槃を欣求し生死を厭背す)して住す、唯だ無想のみ寂静、微妙(みみょう)なりと謂(おも)って(有漏異熟の無想天の果報を妄計して、これが真の寂静微妙の涅槃界であると思う)、無想の中に於て心を持って住す。是の如く漸次に諸の所縁を離れ、心便ち寂滅す、此の生の中に於ては、亦は入り亦は起つ(入るは無心、起つは有心を云う)、若し彼こに於て生ずれば唯だ入って起たず(無想天に生じて五百大劫無心の果を受ける)、其の想若し生ずれば便ち彼こより没す(五百大劫の果が尽きれば無想天より堕落する)。
と、説かれていることによります。第四静慮に入って無想定を起こし、無想天に生じ、五百大劫無心の果を受けることがあっても、その果が尽きれば無想天より没すと説かれていることは無想天に心有ることの証明になる、というのです。