唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

如来の祈り

2009-12-19 22:25:23 | 生きることの意味

「人間の祈りの前に如来の祈りがある」、ここに頭が下がるのですね。その姿が人間誕生でしょうね。如来の祈りに頷いた姿が二種深信ですね。曽我先生の晩年は「機の深信」を叫ばれておられました。法蔵菩薩から二種深信そして機の深信という、先生の聞思の深さを思う時、「ただ念仏」、ただ頷くだけでいいのではないかと思うのです。命の事実にふれるということは理ではない事ですね。頭が下がるということが大事なことではないでしょうか。私の妄想をはたらかしますと、最近は妄想の塊になっていましてね、『正信偈』に竜樹菩薩を讃嘆されるお言葉として「悉く、能く有無の見を催破せん」とあります。否定を通して真実を顕すということが大乗の真髄であるということでしょう。そこに一つ問題が出てきますね。真実は「空」だということはわかるが、現実には迷い苦しんでいるではないか、何故なんだということです。無いのではない有ると、積極的に有る問題を提起してきたのが唯識ですね。「ただ迷いのみが有る」ということですね。認識の問題として深層に働く心を観察し、転依を体得することに於いて唯識性に通達する事を明らかにしてきたのでしょう。そうしますとね、親鸞聖人が明らかにされました二種深信はどこから生まれてくるのかと云うことなのです。曽我先生は法蔵菩薩と云うことで阿頼耶識を解明なさいました。晩年、機の深信を叫ばれるときは、私は末那識を憶念されていたのではないかと思うのです。(すごい妄想ですが)そして第六意識に上ってくる時ですね、法の深信は阿頼耶識の自覚であり、機の深信は末那識の自覚ではないかと思うわけです。第七・第八識はお互いに支えあっているわけですね。「第七なくば転ぜず、第八なくば転ぜず」という言葉がありますからね。相応しているわけです。そして、意識に於いて、はっきりと頷くことができるのではないかと思うわけです。「生死罪濁の身」・「煩悩具足の身」・「朝に紅顔あって、夕べに白骨となれる身」は如来の祈りに於いて明らかになった自覚だと思うのです。ですから世親菩薩が阿頼耶識の中から染汚性の有るマナーという心を独立させたのでしょう。分限の違いを明らかにされたのと同時に、相互依存を明瞭にされたのだと思います。「法蔵菩薩は阿頼耶識なり」と教えてくださいましたお心は機の深信を明らかにするということではないのでしょうか。


不善ということー(2 )

2009-12-18 23:28:44 | 心の構造について

相前後するわけですが、六識について考えてみたいと思います。六識は対象を認識する働きですね。「境を了するをもって性とも相とも為す」といわれているわけです。また六識は身体の構成要素です。根・境・識によって身体は働いているのです。そしてこの六識は「善と不善と倶非となり」といわれて、善心にも不善心にも、さらにどちらでもない無記心のいずれにもなり得る、ということですね。いわばですね、ふらふらしているわけです。不安定な心なのですね。でも、無記の心が働くということは大事です。無記心が深層の心に焼き付きますからね。六識と言いましても前五識と意識ですね、前五はあるがままを認識するのですが、意識は分別します。今日は特に寒さが厳しかったのですが身は分別しないであるがまま受け入れているのです。意識がいろいろ考えるわけですね。当然この働きは深層の阿頼耶識の中の種子が開花したのですが、種子はあらゆる可能性を秘めているのですね。大乗仏教はすべての衆生には仏に成る可能性を秘めているといわれていること、その種子が蓄えられていることは、意識の働きにおいて、私たちは大切にしていかなければならないと思います。深層の働きは見えませんでしょう。深層の働きを認識するのは、認識できる意識を把握する事ですね。そしてその意識を教えに尋ねることが大切なのでしょうね。六識と阿頼耶識のj循環ですね。六転識といわれているのですが、所依と所縁は、六識の所依は第八識ですね。所縁は六識の対象は境ですね。眼識は色境というわけです。眼・耳・鼻・舌・身・意に対し色・声・香・味・触・法です。第八識を依り処として六識は働いているのです。是は何を意味しているのかというと、意識はただ刹那のものではないということです。意識する、意識されるということに深い意味が有るということです。六識はすべての心所とともに働くということであるといわれているのす。そして第六意識はすべて五十一の心所とともに働いているといわれています。それと三受ですね。苦受・楽受・捨受と相応するのです。感覚とか感情と云うのは苦か楽か、それともそのどちらでもない感覚が伴うというわけです。そしてこの感覚と云うのは自分の中から出ているということなのです。「依彼転縁彼」(第七識は第八識に依って転じて第八識を縁ず)意識の深層に第七・第八識の循環に依って自己が成り立っているのですね。


平和と教育ー(4)

2009-12-17 23:10:18 | 平和と教育

「平和の根幹に人間教育という問題がある、人間教育の根幹に正しい宗教観をいかにして養うかという問題がある。・ ・ ・もし正しい宗教観を持たない場合は、エーリッヒ・フロムが指摘しますように、サディズムとマゾヒズムという関係交渉としての権威主義の宗教に転落してしまう。」そして日常的に起こり得るといわれています。所謂、支配と被支配の関係です。この関係を打破しなければならない。そうでなければ、無防備に体制の中に繰り込まれマインドコントロールされ、個の尊厳が保てなくなるのです。支配と被支配の間には支配による洗脳が意図的に行われるわけです。カルトと呼ばれる宗教が先ず最初に行うのが、教祖あるいは代表が絶対であるという洗脳ですね。これが一番の問題だと思います。次に松田氏は 「我執を超えよ」・「法執を超えよ」と「法執を超える課題を持たないと、正しく我執は超えられない。」といわれています。執着は固定化しますからね。法は縁起ですね。縁に依って起こるもので、固定化できるものではありません。自覚するのも縁起ですが迷いもむやみに迷っているわけではないのですね。迷いも縁起なのです。自覚も迷いも法なのです。「深層における支配・被支配への執着が、意識上では理想への欲求に置き換えられ、排他的、独善的に主張されてくる。」と、これが「法執の闇」であるといわれ、疑城胎宮の問題として押さえられています。そしてその中から「私が私であってほんとうによかった」と言いきれる人間を生みだすということが教育の根幹であると教えてくださいました。「汝、大いなるいのちに帰れ。ここにのみ真実の救済道あり」ということです。支配・被支配の関係は疑城胎宮であるという視点は具体的に示されている点で注目されると思います。法の固定化です。固定化することによって自分の殻に閉じこもってしまうんだということですね。ここが一番の問題ということです。親鸞聖人が疑城胎宮といわれた意味は法の固定化と執着であるということ、固定化することは真実に対しての反逆ですから妄想・妄念が起こるのは当然ですね。私は支配・被支配の問題で気になることがあるのです。今、日本の中で最大の新興宗教といわれる組織で生まれたときから洗脳教育を施しているということなのです。そして問題は洗脳されているということの自覚がないということです。組織の中で育って弁護士や教育者になる若者がたくさんいるという事実です。静かに深く潜行して正論を蝕んでいるということです。私たちはこのような問題に対して敏感に成らなければなりません。そして御同朋・御同行という親鸞聖人の視点、眼差しを命をかけて学ばなければならないと思います。そして平和と平等という基本的問題について私はどうあるべきなのかを真剣に問い続けていかなければ成りません。


平和と教育ー(3)

2009-12-16 23:01:13 | 平和と教育

幼児体験が人間形成にとって大きな影を落とすということですね。そして幼児期に於いてどの様な教育を受けるかが問題となります。それはまた教育する側の問題でもあるわけです。教育する側にきちんとした指標がなければなりません。それには正しい宗教観、正しい宗教教育がなければならないでしょう。迷信に翻弄されているようではいけません。清沢満之は「人身の至奥より出る至誠の要求」に応えられるものが正しい宗教であると教えてくださいました。それは本当の自分に出遇うということですね。この視点をもつことが教育する側にとって大切なことなのではないかと思います。フロムの思想について少し触れて見ます。

エーリック・フロム(Erich Fromm)1900~1980

 フロムの思想は第二次世界大戦の中で育ったといっても良いであろう。戦前に書かれた彼の主著『自由からの逃走』では、人間は「…からの自由」に耐えることができず、「…への自由」にも移行することもできないから、ナチズムに走ったという分析がなされている。これはつまり、「人間は自由を希求するが、いざ外部の束縛から開放されたとき、実際自分は何をしていいのか分からない、そして結局脅迫的な画一化に走ってしまう」ということである。この分析は単に第二次世界大戦という枠内で捉えるだけではなく、現在の社会状況と重ね合わせることも可能であろう。フロムによれば、人は自分の有機体としての成長と自己実現が阻まれるとき、一種の危機に陥る。この危機は人に対する攻撃性やサデイズムやマゾヒズム、及び権威への従属と自己の自由を否定する権威主義に向かうことになる。と述べています。

 フロムは権威主義という言い方をしていますが、誤った宗教はまさに権威主義なのです。正しい宗教は権威を振りかざすことはありません。親鸞聖人に見て見ますと、「あなたがたが命を顧みず訊ねてこられたのは、往生極楽の道を問うこと、そのこと一つなのです」と、そして「このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなりと」権威主義を否定されています。そして、「親鸞一人がためなりけり」・「親鸞は弟子一人もたずそうろう」と一人の尊さを大切にされています。私は一人一人の命の尊厳を大切にする教育が平和を考えるうえで大切なことであると思います。世間では権威主義を振りかざしている宗教も見受けられますが、宗教は権威主義でもなく教権主義でもありません。「私はどこから来て、何をして、どこへいくのか、を明らかにするものでしょう。」横道にそれましたが、いま一度松田氏の言葉に耳を傾けて見ましょう。


平和と教育ー(2)

2009-12-15 23:47:58 | 平和と教育

次に平和を危うくする家庭的要因の問題です。「エーリッヒ・フロムはユダヤ系ドイツ人でありますから、たくさんの肉親をアウシュビッツで亡くしているに違いない。しかし、彼はヒットラーを憎まないで研究対象になさった方であります。・・・その中で、きちんとした教育がなされなければ、支配と被支配という人間関係を好む人間が生まれてしまうんだと.・・・ヒットラーはサディズムだったと、銃弾に撃たれて今死にそうになっている若い兵士を見てエキサイトしたと、フロムは対談の中で語っています。」このようなことは何故起きてくるのかという問題ですね。それは分離不安という幼児体験の固着に原因があると言っているのです。分離不安というのは人は母親の胎内から生まれてくるわけですが、生まれてきた瞬間、母胎から分離するわけです。その時初めて不安を知るといわれているわけです。不安を抱き、恐怖心を持つわけです。これが分離不安なんですね。幼児期ならともかく成人してもこの傾向が解消しない、固着してしまっているとですね、「支配ー被支配という狭い人間関係でこの不安から逃れようとする傾向を持つ。人間が力強く成長しない場合、人を支配するか、支配されるかのどちらかに立たないと不安で不安でしょうがない、という問題を抱かえてしまうということなのです。」フロムは、これを「自由からの逃走」と呼んでいます。そして自由とは「生きることの意味と目的を、他者から付与されることなく、自ら見いだし選びとってゆかねばならない人間存在を「自由」と呼びました。」松田氏は「自由を荷負することのできる人間を育てていくということが最も肝要な課題として、平和の問題に付随してきます。付随してくる問題というよりも、平和そのものの問題として人間教育という問題が、クローズアップしてくるわけです。」と述べておられます。問題は人間教育ということなのですね。何を、誰に、如何に、教えるのか。それを間違えると、自己本位になり、自己本位であることすら見失った迷走に走ることになるのです。正しい宗教教育を私自身に受け止め、私自身を問うことから、はじめて教育は成り立つのではないでしょうか。


平和と教育ー松田正典氏に学ぶー(1)

2009-12-14 23:15:38 | 平和と教育

平和の危機の問題と、平和はいかにしたら実現できるのかを東本願寺発行、伝道ブックス35「平和と教育」松田正典述によりながら考えてみたいと思います。平和を脅かす最大の問題は戦争であり、大量殺戮兵器はまさに核兵器です。それが世界で唯一、広島、長崎に投下され、地獄絵が面前に広がったのです。また敵なら 殺してもいいという思想ほど恐ろしいものはありません。ナチズムもそうでありましょう。また共産主義社会における粛正もありました。ここでも大量殺戮が履行されたのは歴史の事実です。また今こうしてブログを綴っている間にもアフガンにおいて敵対する相手の殺戮が繰り返されているのです。何故このような事態が起こるのでしょう。松田氏はエーリッヒ・フロム氏の指摘を引用しながら平和を破壊する要因の克服について述べておられます。エーリッヒ・フロム氏は生涯恨みに恨みを結ぶことをしないで生きぬかれた方のお一人であるということ、そして仏教に造詣が深い方であるということなのです。「エーリッヒ・フロムは、平和を破壊する要因には社会的要因と家庭的要因があるとおっしゃる。・・・社会的要因の一つは、軍事政権だったということです。・・・もう一つは言論統制をしているということです。」マインドコントロールという意図的に心をある一方に傾斜させることにおいて独裁者の意のままに社会を動かせていくというものです。それをやってのけたのがヒットラーです。言論統制がおこなわれユダヤ人が大量に殺戮されました。その数、600万人といわれています。「そうすると平和であるためには、軍事政権と言論統制をやらせてはいけないわけですね。」その方法は選挙権を守るということ、だと言われています。そして言論の自由を守るということですね。そして大事なことは情報の公開ということです。この三つが必要になるということだと述べておられます。この三つはコントロールをしてはいけないということになります。情報ということについていえば偏った情報を流してはいけないということなのですね。


日曜雑感ー戦争と平和を考える

2009-12-13 14:26:32 | 平和と教育

先日、オバマ米大統領のノーベル平和賞受賞演説の要旨が報道されていました。いうなれば、世界のリーダーが戦争と平和についての考え方を示されたということです。一言で言うならば「平和のための武力容認」ということなのです。その演説の中で「ずいぶん前にマーティン・ルーサー・キング牧師がこの授賞式で語った言葉を胸にもっている。彼は「暴力は決して恒久的な平和をもたらさない。それは社会の問題を何も解決しない。それはただ新たな、より複雑な問題を生み出すだけだ」と言った。キング牧師が生涯をかけた仕事の直接の結果としてここにいる者として、私は非暴力が持つ道義的力の体現者だ。私は、ガンジーとキング牧師の信条と人生には、何ら弱いものはなく、何ら消極的なものはなく、何ら甘い考えのものはないことを知っている。

 しかし、私は、自国を守るために就任した国家元首として、彼らの先例だけに従うわけにはいかない。私はあるがままの世界に立ち向かっている。米国民への脅威に対して、手をこまねいてることはできない。間違ってはいけない。世界に邪悪は存在する。非暴力の運動では、ヒトラーの軍隊をとめることはできなかっただろう。交渉では、アルカイダの指導者たちに武器を置かせることはできない。武力行使がときに必要だと言うことは、冷笑的な態度をとることではない。それは人間の不完全さと、理性の限界という歴史を認めることだ。」と述べ、時として平和のための戦争も必要であるという指針を示しました。また、「戦争という手段は実際平和を維持するために役割を果たしている」とも述べているのです。要するに彼の言葉を借りるならば「武力行使が時として必要であるばかりか、倫理的にも正当化されることがこれからもある。」ということになります。

 平和のための戦争という、一つの定義は以前から言われていたことなのですが、平和のために戦争はあってもよいのかという問題が残るのです。戦争というのは敵味方に関係なく国家による殺戮の繰り返しなのです。そこに人の尊厳、命の重さという視点は微塵も見られません。平和の為に戦争はあってはならないのです。平和は平和のための議論が必要だと思うのです。でも理性と倫理だけではこの問題は解決できないのかもしれません。理性と倫理の限界が垣間見えるのです。「煩悩成就の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」(『歎異抄』)という親鸞聖人のお言葉が胸に響いてくるのです。「世間虚仮」という眼差しが必要になるのではないでしょうか。何故、世間虚仮なのか、それは平和の為には時として戦争も必要だと述べられているところに端的に示されているようです。そこには、一個の人間の命の重さが語られていないというところに見受けられるのです。私は真宗大谷派が「すべてのテロ行為は、憎むべき卑劣な行為です。しかしながら、その行為に対して武力をもって報復することは、戦争の悲劇を繰り返し、多くの人びとのいのちを奪い、あらたに難民を生み出しております。これこそが人間自身の持つ愚かさであり、悲しさです。正義という名の殺人によって平和を実現しようとする人間の迷妄は破られねばなりません。民族・言語・文化・宗教など様々な違いを認めあい、真実の平和を願い、同朋として出遇う道を模索する以外に、テロリズムを根絶することはできないと確信しております。

 私たち真宗大谷派は、過去の戦争に関与し、多くの国と人びとに多大なる苦痛と悲しみを強いた歴史をもっています。生きとし生けるものを平等なるいのちとして見出す仏陀の教えをいただきながら、その教えに背いて戦争に協力した罪責は、どれだけ反省しても償うことはできません。私たちは今、戦争の歴史を検証し自らの加害責任を直視し、戦争に二度と加担してはならないとの決意をあらたにしております。

 世界における民族、宗教の相違による問題と経済格差による貧困等の諸問題に対する無知・無関心をあらためて自覚し、全世界の悲しみを真摯に受け止め、あくまでも武力行使に依らない、外交的努力と人道的支援こそ日本国の世界平和に貢献する道であると確信し、宗教者として四海平等の仏陀の精神の具現に向けて一層の精進を誓うものであります。

 私たちは、これ以上犠牲者を生み出すことのない、すべての人びとのいのちの尊厳が守られる叡知の結集を願い、テロ行為並びにテロ行為に対する報復としての武力行使を、即刻、中止されることを強く要望し、平和実現への努力を惜しまないことを決議いたします。

2001年10月17日

真宗大谷派 宗議会議員一同」

という声明文が戦争と平和を考える視点として大切な決議文だと思います。では実際に今、世界各地で紛争があり、戦争も繰り返し行われている現実に対しどのようなどのようなメッセージを送ることが出来るのでしょうか。特にアフガニスタン問題にどのように答えたらよろしいのでしょうか。また日本において沖縄の問題、基地の問題についてどのように指し示したらよろしいのでしょうか。そしてこれらは政治問題として片付けてよいのでしょうか。私はこれらの問題を考える上で、問題の根っこにあるエゴイズムをさらけ出す必要があるのではないかと思っています。私益と国益です。そしてテロとの対峙とはいいますがテロという概念はこちら側の見方でしょう。こちら側の論理が優先してしまうところに問題が起きる要素が隠されているのではないでしょうか。私たち、念仏を申す者としてこれら社会の問題にどのように応えたらよろしいのでしょう。宗教の問題と社会の問題を次元の違うこととして切り離し、これら社会の問題に応じる必要を感じなかった過去の歴史を直視し、「現実の問題に応えるのが宗教の根にある問題である」ということを知る必要があるのではないでしょうか。「現実問題の直中にしか宗教問題は成り立たないというのが、私は仏教だというように思うんです。」とは尾畑文正師の指摘です。(『真宗の平和学』より。真宗名古屋別院発行)、「非制を制するは、すなわち三明を断ず。記説するところこれ罪あり」と。(真聖p367『教行信証』化身土・本)三明とは仏が備えている三つの智慧のことです。宿命通(過去のことを明らかに知る智慧)・天眼通(未来のことに通じる智慧)・漏尽通(現在のことを明らかにして、煩悩を断ずる智慧)のことを指しますが、目には目を、歯には歯をという、暴力を制するのに暴力をもってしては亦恨みを残し、明らかなる智慧を閉ざしてしまい、謗法という大罪を犯すことになるのではないでしょうか。人間社会は欲と執に満ちてはいますが、命有ることの尊さに気づかしめられた者として、戦争と云う暴力はいかなる理由があっても許してはならないと思うのです。「有事に備えて」という危惧があるのは当然とは思いますが、私たちは「安危共同」なのです。それが私であり、私たちの社会であるということを知ることが大切なのでしょう。「諸の衆生と共に」という視線には、いかなる理由があるにせよ一切漏れる人はいないということを声高らかに宣言していかなければならないと思います。


不善と言うことー(1)

2009-12-11 23:56:41 | 心の構造について

各地の文化教室、所謂カルチャーセンターの仏教講座は聴講を希望される方でたいへん盛況だそうです。京都や奈良の古刹での仏教講座にもたくさんの人が出かけられているようです。善を求め、潤いのある人生を送りたいという思いからだと思います。そして法話を聞くことに於いてゆとりのある生活ができ、心に余裕が持てるという期待感があると思うわけです。写経会や座禅会もたいへんな賑わいを見せているようです。今まで「善」について学びましたが表層の心の領域には「不善」善に非ずという心が有るのですね。善と不善を併せもっているわけです。そうしますと、仏教講座に学ぶということはいい人に成るということでしょうか。悪を廃し善を為す人に成ることでしょうか。私は、そうではなくて、仏教の学びは不善の心をしっかりとみていくことだと思うのですね。「今日はいい法話を聞かせていただき身も心も洗われました。」それと「いい死に方をしたいから仏法を聞いています。」このような会話をよく耳にするんです。非常に真面目な方によく見受けられる傾向です。善の方向性が強いのでしょうね。より良い生き方、心に潤いのある人生を送るには大切な指向性であるに違いありません。唯識の解説書には「時にはヨーガを修して、移ろいやすい心の動揺を静め、どっしりと安定した心の世界に沈潜していきましょう」という主旨が述べられていますが、これは表層の意識が深層の意識に深く関わっているところから述べられたものでありましょう。表層の意識が善の方向を持つことに於いて善の種子が無意識の領域に沈潜し蓄積されるところから言われているのですね。生きることの意味を尋ねることは、人として人間としての根源の命の課題だと思うのです。しかしより良い生き方をしたい、人様に迷惑をかけずに静かに息を引き取りたい。あるいは無病息災・長寿延命でしょうか。このような指向は純粋な善といえるのでしょうか。私たちは一人で生きていけるものではありません。また望み通りの死に方ができるものでもないでしょう。縁に依る存在ですからね。真面目に生き様と思えば思う程不善の心が立ち塞がってくるのではないでしょうか。仏道を学ぶということは、自己を学ぶということでしょう。また自己とは、この生かされてある命の事実に頷くことでしょう。そうだとすると、私の思いは命の事実に反逆していることに成りませんか。命の事実は何を願っているのか。親鸞聖人は端的に「往生極楽の道を問わんがため」であると指摘されました。私は仏道を歩むということは命の事実に反して生きている我が身に慙愧をいただいていくことだと思っています。「往生極楽の道」とはいかなる道なのでありましょう。私は「いついかなる時、何が起きても悔いのない人生を生きる」ことだと確信をしています。それが南無阿弥陀仏の内実ではないでしょうか。南無阿弥陀仏とは自己誕生の声・自己誕生の宣言であると領解するものであります。


目覚めるということー(2)

2009-12-09 20:06:41 | 生きることの意味

私は幼くして母を亡くしました。母は元々体が弱く、とても子供を産むことはできなかったのです。しかし農家の跡取り息子に嫁いで来たこともあって、どうしても子供を産みたいという思いが強かったのです。医師からは無理ですよ、諦めなさいと言われたのにも拘わらず、病弱の体を推して私を出産したのです。やはり産後のひだちが悪くわずか28年の人生を閉じることになりました。私はそんな母の思いを真正面から受け止めることはできなかったのです。また考えたこともありませんでした。それでも十代の頃仏縁があったのは仏法不思議というほかあまりせん。しかし、理屈だけ覚えて、私が何故産み出されてきたのかを真正面から問いかけたことはあまりせんでした。目は外へ外へと向いていたのです。ですから私の生き様はとてもじゃないですが話をできるものではありません。でもね、不思議なんですよ。心のどこかで響くんです。「仏法に出遇いなさい」と言う声が。でもね、放浪生活を繰り返しながらこのまま人生を閉じてしまうと思っていた矢先、今の家内と知り合い、47才の秋、子供を授かることができたのです。家内も高齢出産ということもあり、出産に至るまで幾たびか諦めようと思ったことは屡々でした。しかし家内の産みたいという願いと子供の産まれたいという願いが実を結んだのでしょう。帝王切開ではありましたが一子がこの世に生をうけることとなりました。この時です、我が子と対面した時です。時空を超えて走馬灯のように母の思い、母の願いが私の中に芽生えたのです。「お父さん、ぼくのお父さん、お父さんしっかりしてくださいよ。ぼくの命の叫びをしっかりと聞いてくださいよ」という声が、声なき声が聞こえてきたのです。私は何故産み出されのか。何を明らかにしなければならないのかが、この時はっきりしたのです。それはこの問いを縁として「自己とは」を親鸞聖人にお尋ねするということの他ありません。これが私にとっての宿業因縁なのです。


目覚めるということー(1)

2009-12-08 23:40:38 | 生きることの意味

「宿業因縁」という問いかけですが、難しいですね。これは「他」に対して言う言葉ではないですね。自らが宿業であると受け取る自覚の言葉ですから。以前、高 史明師が大谷大学で講演されました「『歎異抄』そして蓮如上人の今日的意義」のなかでご自身の経験をふまえて私たちに語っておいでになる言葉があります。ご存知のように高師は眼の中に入れても痛くないほど可愛がっておいでになった一人息子さんを亡くされているのです。それも自死というかたちで。少し長い文章になりますが掲載します。「私たちは二十一年前に、一人子に死なれたのでした。その子の自死という悲しみがなかったら、今日の縁が、私にあったかどうか。私が浄土真宗の教えを頂くようになったのは、その悲しみからでした。『歎異抄』を開き、『教行信証』を頂くようになった。そして、最近はしばしば蓮如上人の教えを頂いています。その蓮如上人のお言葉で、最初に頂いた言葉は何であったか。いわゆる「白骨のお文」が、その縁のはじまりです。私は子に死なれて、初めてこの教えを頂いたのでした。 

それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。されば、いまだ万歳の人身をうけたりという事をきかず。一生すぎやすし。まぼろしのごとくなる一期なり。されば、いまだ万歳の人身をうけたりという事をきかず。一生すぎやすし。いまいいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。いたりてたれか百年の形体をたもつべきや。我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李のよそおいをうしないぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。さいしもあるべき事ならばとて、野外におくりと夜半のけぶりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あわれというも中々おろかなり。・・・」

 もう二十一年前のことになります。夏の七月十七日のことでした。そのひ、子は夏休みが近いということで、昼前に学校から帰ってきました。いまでもそのときのことをよく覚えています。私たちは、連れ立って近くのソバ屋さんに出掛けました。ソバ屋でお昼を頂いた。ソバを頂いていたとき、それからその帰り、私たちの間には、つねに談笑がありました。そのとき私は、その数時間後に何が起きるかを、まったく予感していなかったのでした。それどころか、夏休みとともに始まるさまざまな楽しい予定で、浮き浮きしていたと言っていい。家に帰ってから、私は机に向かい扉の向こうに消えていこうとしている子の後ろ姿がありました。私は「行っていらっしゃい」と言いました。そして、それが子との永別の瞬間となったのでした。・・・愛別離苦という言葉がありますが、子との永別は、まさに悲しみの極みだと言えましょう。私は毎日、その意識もなく白骨となった子と向き合いました。そして、蓮如上人のお言葉と出会ったのでした。「朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり・・・」と言われている。・・・私に視座から、死んだ子を悲しみ、自分の視座から、白骨を見つめていたのでした。そして、十年、二十年という歳月が経ったのでした。長い歳月でした。長い悲しみの歳月です。だが、その涙とは生きている自分を中心にして、死んだ子の白骨を見つめて、可哀想にと泣いている私の涙だったわけですね。・・・その私とは何か。それこそ見ている自分にほかなりおません。亡き子の方から、さらに言うなら仏様の方から、まっすぐに見つめられていることに気づかない私です。悲しんでいる自分とは、実は亡き子の方から悲しまれているんですね。人間が悲しむことができるのは、仏さまの方から悲しまれているからなんです。あるとき突然、それに気づいた。私はわずか十二才の年で自死した子を思って泣いていたわけですが、その涙とは実は、泣いている私を悲しんでいる亡き子の涙だったんですね。あるとき突然、亡き子の声が聞こえてきたといってもいいでしょう。

 「ただ白骨のみぞのこれり・・・お父さん、あなたは、いつまでこの言葉をぼくのことだと思っているの。これはもうぼくのことではないんだよ。これから白骨になるのは、お父さん、あなたの方じゃないか。・・・あわれというもなかなかおろかなり、と言われているのは、あなたの方なんだよ」

 その亡き子の声は、まことに根本的だったと言えます。この声が聞こえなかったとき、私は自分中心に亡き子をみつめ、同じように自分中心に蓮如上人のお言葉を読んでいたのでした。それ故、「ただ白骨のみぞのこれり」のお言葉には、骨に響く震えを覚えながら、『お文』の結びには、同じような震えは覚えなかったものです。『お文』の結びは、どうなっているか。その結びを、いま読んでみます。「されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。」  いまに思えば、「白骨のみぞのこれり・・・」という言葉には、骨に凍みる響きを感じながら、この結びはただ知識をして読んでいたわけです。そこに紙一重ほどの透き間があった。・・・いまは亡き子の声が聞こえるのです。「お父さん、あなたのぼくの骨を見ている眼は何か。ぼくの死を悲しんでいるその悲しみは何か。それを一度根こそぎに見つめてみたらどうです。阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて・・・と言われているのは、お父さん、あなたの方なんですよ」と。・・・亡き子の白骨が、長い歳月をかけて、いつも自分中心の私に、その根源的闇を教えてくれたのだとも言えます。人間とは、白骨との対面に連れ出されてなお、自分中心に見ていて、その白骨が自分の身の事実だと思わないのですね。白骨の方からの呼び声には、なかなか耳を澄まそうとはしない。手を合わせていながら、手を合わしめられていることに気づこうとしない。蓮如上人はその人間の迷いの深さを、白骨において示し、真実の道への歩みを励ましているんですね。・・・」そして、ある人の質問に答える形で「死を前にして、不安のないようにと言うから、無理なんです。どうです、ここで一度、いままでの眼の向きを変えたら。あなたはいままでに、自分がどこから生まれてきたかを考えたことがありますか。多分、ないでしょう。それが自我中心の人間の生き方なんです。それで幸せだと思っていたわけだ。ところが、死はその自我を打ち壊すんですね。そうであれば、ここらで自分が何処からこの世界に来ているのか、その自分のいのちの故郷に眼の向きを変えてもいいのではないか。死を考えるのは、それからでもいいんです。・・・死を考える前に一生に一度でいいから、いのちの故郷を考えてみたらどうです。それを考えるのが仏教なんです。」

 高 史明師の講演の抜粋なのですが、私たちにいのちの琴線に触れた重くて深い教示です。尚、全文は『親鸞教学』71号p69~101い掲載されています。明日は私の思いを述べてみたいと思います。