唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

雑感

2009-12-03 23:36:18 | 生きることの意味

善の心所の次に煩悩の心所が述べられていますが、その前に根本煩悩について述べておきます。我痴・我見・我慢・我愛といわれる真実を見つめる眼差しを失わせる煩悩です。第七識が何故我と執着するのかは、この四の煩悩と共に働いているからです。すみません、ここで大事なことを言い忘れていました。仏教は自覚の宗教といわれていますでしょう。内実は内観の仏道なのです。ですから煩悩があるというわけではないのですね。煩悩が有るというのは説明です。私が苦悩を抱いている生き様は何故かと問うた時に、自己の内に自覚的に見出してきたものなのです。煩悩があるから苦悩するのではないのですね。苦悩する事実が現に有るわけです。そこに信心をいただくのです。ですから、信心を戴いた人を「便同弥勒」といいますでしょう。信心を戴かなくて、苦悩の因は煩悩だと知り得ることが出来たら仏陀ですよ。分限をはっきりしないといけませんね。私たちは聞法をさせていただいておりますから煩悩という言葉を知っているわけです。知っているだけですね。唯識の行者はヨーガの行から迷いの根底に四の煩悩(我執)が働いていることを見出したのですね。親鸞聖人も生死出づべき道を探し求める中から本願念仏の道に出遇われたのでしょう。煩悩だという答えが先にあるわけではないのです。この事を言い忘れていました。仏教は内観の道なのですね。内観から見出された世界が「自己とは何ぞや」と問わせるのではないでしょうか。清沢先生の悪戦苦闘の聞思が「絶対無限の妙用に乗托して任運に法爾に、此の現前の境遇に落在せるもの、即ち是なり」(「絶対他力の大道」より)という真実の自己を見出してきたのではなかったでしょうか。