唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 滅尽証(23)第五・経言無属難(9)雑感

2018-05-06 10:57:47 | 阿頼耶識の存在論証
 連休最終日、皆さんはどのようにお過ごしのことでしょうか。
 滅尽定は、仮定のこととしてしか話せませんが、滅尽定において初めて散乱粗動し間断がある前六識が波立たないことになるのでしょう。六識が無くなるわけではなく、五識が転じて成所作智・第六識が転じて妙観察智という智慧となって働いてくるのでしょう。真宗では信心の智慧と表されていると思うのですが、この信心の智慧は何を依り所として生起してくるのか、この問題に答えているのが、細意識ではなく、散乱粗動し間断の無い、無覆無記である第八識なのでしょう。第八識が増上縁依となって我執が破れてくるわけでしょう。そして第八識は無漏であるけれども、有為の世界に身をいただいた時、有漏の根拠として前六識に影響を与えてくる。この身をもって私たちは日々の生活をしているわけでしょう。ですから生活全般が第八阿頼耶識の現行の相ですね。第八識と第八阿頼耶識の葛藤の中で世界を認識しているのが事実ではないでしょうか。
 いのちは有漏と無漏の二つの要素を持っていると思われます。
 有漏の種子が三界・五趣・四生を選んでこの身の誕生がある、生まれたということと、生み出されたということ。そして有漏の種子に気づかされて、初めてお蔭様、私のいのちは頂いたもの、預かっているもの、何を預かっているのかというと、有漏から無漏へ、迷いから目覚めへ転ぜよといういのちを預かっている。
 ですから、阿頼耶識は流転と還滅の根拠になると教えられているのですね。すべてはここから始まる始発点なのですね。終着駅は始発駅という歌がありましたが、始発駅が終着駅ではないんですね。還る処をもって始まる処を得ているわけでしょう。
 所縁の外界が人生を左右するのではなく、所縁の外界を作り出している流転の原点が阿頼耶識にあったと知るべきでしょう。見分行相=阿頼耶識。見分行相が投げ出した環境が所縁の相分ですね。ここに気づかされたのが信心の智慧だと思います。認識が逆転するわけですね。滅尽定とはこういう世界ではないでしょうか。
 本科段である経量部の主張を論破される護法菩薩との対論はまさしく阿毘達磨。