唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 ・善の心所 慚と愧の心所について (12)

2013-06-08 23:56:17 | 心の構造について

P1000889 第三、古説の問いを解釈する、内容が六つに分けられ、問いと答えが先ず示されます。そして古説側の反論、護法の会通、古説側の再反論、護法の再会通が述べられ、護法の正義が明かされます。

 「崇重し、軽拒するいい若し二が別相なりといわば、所縁は異なること有るを以て、倶生せざる応し、二の失既に同なり、何ぞ乃ち偏に責むるや。」(『論』第六・三右)

 「論。崇重輕拒至何乃偏責 述曰。下解釋外問有六。一問。二答。三難。四通。五徴。六釋。此問也。若崇重善爲慚。唯縁善故。輕拒惡爲愧。唯縁惡故。是二之別相者。此二所縁既有異故。應不倶生。彼此二失既同。何乃偏能嘖我。我亦境別。縁自他故。不同時故。」(『述記』第六本下・十左。大正43・435c) 

 (「述して曰く。下は、外の問を解釈す。六有り。一に問、二に答。三に難、四に通、五に徴、六に釈、
 此は問なり。若し善を崇重するを慚と為するを、唯善のみを縁ずる故に、悪を軽拒するは愧と為す、唯悪を縁ずるが故に。是れ二の別相ならば、此の二の所縁既に異ること有るが故に、倶生せざるべし。彼此の二失既に同なり。何ぞ乃ち偏に能く我を責めんや、我も亦境は別なり。自他を縁ずる故に、同時ならざるが故に。)

 初は、問が出されます(古説側からの論破・護法説を批判して)

 崇重し、軽拒するということが、若し慚と愧の二の別相であるというのであれば、慚と愧の所縁は異なるものであるから、同時に倶生することはないであろう。この過失は、私の主張も、護法の主張も同じものである。同じものであるならば、どうして私が批判され、(あなた)護法は批判されないのか、批判されて当然ではないのか、批判されるべきである。

 このように、古説側は批判しているのですが、古説側の批判は、古説側に立っての批判なのです。即ち、自説が正しいという立場からの批判になります。古説側は、慚と愧の所縁は自と他という異なったものであると主張していましたが、その主張の範囲を超えることはなく、護法の説を、自と他を、善と悪に置き換えたように理解しているのです。同じ論理の説であると。

 次科段が護法の応答になり、古説側の論理を論破します。