唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

日曜雑感 『真宗における戒律の意味』

2012-12-09 12:19:58 | 生きることの意味

        「無戒名字の比丘なれど

          末法濁世の世となりて

          舎利弗目連にひとしくて

          供養恭敬をすすめしむ」

           (『愚禿悲嘆述懐和讃』より)

 比丘は簡単に説明すると、出家得度して具足戒を受けた男子を比丘、女子を比丘尼といわれているように、具足戒を受け、それを受持することをもって比丘・比丘尼なのです。そしてその比丘・比丘尼の集団を僧伽というのですね。出家得度は、迷いの世界から悟りの彼岸に渡ることを意味していますから、その仲立ちになるのが戒律なのですね。
 迷いの世界は、「外道の所有の三昧は、みな見愛我慢の心を離れず、世間の名利恭敬に貪着するがゆえなり、」という、我執の思いによって成り立っている境涯を現わしています。ですら、「行者常に、智慧をして観察して、この心をして邪網に堕せしむることなかるべし。当に勤めて正念にして、取らず着せずして、すなわちよくもろもろの業障を遠離すべし」と要求されているのです。

 聖道の菩提心は、戒・定・慧の三学を保つということにおいて、世間を出るのでしょう。しかし、親鸞聖人はここに疑問を起こされたのですね。『教行信証』化身土巻において、身と土の問題として提起されています。きちっと「化身土巻」を読み解く必要がありそうです。

 「しかれば穢悪・濁世の群生、末代の旨際を知らず、僧尼の威儀を毀る。今の時の道俗、己が分を思量せよ」

 と。「今」「時」「機」の問題を、親鸞聖人御在世の、元仁元年甲申は、末法に入り六百八十三歳であるという見極めが、末法の僧尼の意義を問いだされています。それが「無戒名字の比丘なれど」という問いかけになるのではないでしょうか。『末法燈明記』には「仏涅槃の後、無戒洲に満たん・・・いま重ねて末法を論ずるに、戒なし。・・・ただ名字の比丘あらん。この名字を世の真宝とせん。・・・たとひ末法の中に持戒あらば、すでに怪異なり、市に虎あらんがごとし。・・・破戒・無戒、ことごとくこれ真宝なり、と」

 それでは、何故無戒名字の比丘が真宝といえるのかという問題が出てきますが、この問いに対して、少し長い文章になりますが、「化身土巻」(真聖p366~367)を引用しておきます。

 『大悲経』に云わく、「仏、阿難に告げたまわく、将来世において法滅尽せんとせん時、当に比丘・比丘尼ありて我が法の中において出家を得たらんもの、己が手に児の臂を牽きて、共に遊行して、かの酒家より酒家に至らん、我が法の中において非梵行を作さん。彼等酒の因縁たりといえども、この賢劫の中において、当に千仏ましまして興出したまわんに、我が弟子となるべしと。次に後に弥勒、当に我がところを補ぐべし。乃至最後の盧至如来まで、かくのごとき次第に、汝当に知るべし。阿難、我が法の中において、ただ性はこれ沙門の行にして、自ら沙門と称せん、形は沙門に似てひさしく袈裟を被着することあらしめんは、賢劫において弥勒を首として乃至盧至如来まで、かのもろもろの沙門、かくのごときの仏の所にして、無余涅槃において次第に涅槃に入ることを得ん。遺余あることなけん。何をもってのゆえに。かくのごとき一切沙門の中に、乃至一たび仏の名を称し、一たび信を生ぜんものの所作の功徳、終に虚設ならじ。我仏智をもって法界を測知するがゆえなり」と云云。乃至 これらの諸経に、みな年代を指して、将来末世の名字比丘を世の尊師とすと。もし正法の時の制文をもって、末法世の名字僧を制せば、教・機あい乖き、人・法合せず。これに由って『律』に云わく、「非制を制するは、すなわち三明を断ず。記説するところこれ罪あり」と。この上に経を引きて配当し已訖りぬ。

 末法の時代を生き抜く僧尼の在り方は、聞思道である、聞思道を以て、世の真宝というのだということを明らかにされているのですね。「信に死し、願に生きん」ということです。

 真宗の僧尼は「末代無智の、在家止住の男女たらんともがら」という自覚をもった門徒ですね。出家と云う形を取っていません、在家の姿のまま、法を聞く存在という意義をもって僧伽なのです。これが経糸になりますね。それぞれの立場で織りなす模様が横糸となり、

        「真実信心うるゆえに

          すなわち定聚にいりぬれば

          補処の弥勒におなじくて

          無上覚をさとるなり」

           (『正像末和讃』より)

 という、末法濁世の真只中に大乗正定聚の位を得ることができる、これが末法における無戒名字の比丘の意義であることを教えておられるのではないだろうかという思いがします。

 それとですね、真宗における戒の意味ですが、帰敬式(おかみそり)を受けられた時に、本山からパンフレットを頂きます、その中に詳しく帰敬式を受ける意味が書かれていますので、それをお読みになられると大体の意味は分かるのではないかと思います。

 名聞・利養・勝他という三つの煩悩を断つという意味を込めて髻を断ち切る(形だけですが)のです。これが戒の意味ですね。根本煩悩を断ち切ることにおいて、世間を依り所にしている在り方に死して、出世間を依り所にして生きていきますという宣言になるわけです。真宗門徒は忘れがちですが、大変大切なことを教えていると思いますね。「造悪無碍」ではないのです。法名を頂くということは、名聞・利養・勝他という世間の価値観を離れるということをもって生きることを意味していますね。名聞・利養・勝他という生き方に死するわけです。そこから開かれてくる世界が真宗門徒の生き方なのですね。
 いうなれば、聞法は常に名聞・利養・勝他という在り方に対峙しているのです。ですから、帰敬式をうけ、法名をいただいて真宗門徒というわけにはいかないのですね。

 「称名憶念あれども、無明なお存して所願を満てざるはいかん」

 という問いをもって聞思道を歩むのが真宗門徒の戒律の意味になるのではないでしょうか。善導大師は「前念命終・後念即生」と教えられ、曽我先生は「信に死し願に生きよ」と教えてくださいました。祖聖のお言葉に耳を正して聞思という道を歩んでいかなければなりません。

 


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