10月25日(木) 曇
レストランのオープンテラス
田舎者の僕はワインもカクテルも飲みません。チーズも食べません。しかし、こんなおしゃれなレストランでビールはやっぱりまずいでしょう。赤ワインにブルーチーズを注文しましたが、あんなまずい物をよく平気で食べるものですね。
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イスラム教の矛盾
イスラム教は「宗教」ではなく「法律」である。従って「信仰」は「実行」になり、政教一致、聖俗一致として、国家体制から経済、文化、個人生活に至るまで拘束力を持つに至る。イスラム国家は憲法を持つことができない。イスラム聖法ですべてを裁く。たとえそれが時代遅れのものであっても、神の意思だから変えることはできない。イスラム教を放棄するか、トルコや旧イランのように世俗主義を選択しなければ、法治国家にはなれない。
イスラム国家と民主主義は両立しない。基本的人権も享受できない。一夫多妻や服装など女性は差別されているし、刑罰も公開鞭打ち刑や残酷な「同害報復(キサース)」などが残っている。無意味なあるいは時代にそぐわない禁忌が多すぎる。
経済は停滞し、不正はなくならない。役人は、「給料だけでは一族の面倒をみ切れない」と公然と賄賂を要求する。公私混同が悪であるという意識は希薄だ。何事も神の思し召しのまま」と怠ける人間はなくならない。1日5回の礼拝と1ヶ月の断食で工業が育たない。遊牧民思想から農業も育たない。「強い者が遊牧し、弱い者が耕す」と信じている。
政教一致の政体では、宗教は権力の支配の道具と化す。司法と立法が神学者の手に握られる。神学者は自分の都合のいいようにコーランを歪曲し、国家権力を自らのものとする。カダフィの緑の書もコーランの枠内での改革路線であり、民主主義や人道主義からはほど遠いものである。血族意識と宗派意識は、社会主義国における「マルクス・レーニン主義」、日本の「平和と民主主義」同様、イスラム世界の絶対原理である。
キリスト教、仏教が主として教義の分裂から政治的対立に発展したのに対して、イスラム教では政治的対立がもとで教団が分裂し、教義の対立に発展した。宗派間の対立は激しい。ナショナリズムが教義に優先し、大同団結はない。国内政治も、軍部や宗教勢力主流派による独裁で、基本的人権はない。血族優先は必ず腐敗を生む。「アラブの大義」も「汎イスラム主義」も専制政治の道具に過ぎない。イスラム世界は一枚岩ではない。アラブは対イスラエル戦で全敗だ。
マホメットはキリスト教を次のように批判した。「唯一絶対神が人間のように子供を持っているとは」と神とキリストと聖霊の三位一体説を攻撃した。中世カトリックは堕落し暗黒世界を築き、プロテスタントが改革ののろしを上げた。イスラム教はその教義上、改革が許されないであろう。絶えず保守派に揺り戻されて不安定な政治を歩むのであろう。また彼は「キリスト教世界には特権的な聖職者階級が存在し、人類の平等の原理に反する」と批判している。しかしイスラム世界の現状はマホメットを嘆かせるのに十分であろう。
マホメットはユダヤ教を批判して「形式主義者の集まりであれなら礼拝しない方がましだ」と言った。現代のイスラム教は行動的かもしれないが、形式主義でもある。
西洋合理主義は批判する。イスラム教徒には、異教徒と根本的に理解し会おうとする姿勢はない。彼らは物事の見方が極端に主観的で、すぐに感情的になる。プライドが強く、劣等感も強く、疑い深く、そねみやすい。都合の悪いことはすべて神に責任を押し付ける。
このことを理解しなければならない。イスラム教徒は、イスラム教的発想よりも遊牧民的発想が強いのだ。彼らは、社会体制としてのイスラム教から、個人信仰としてのイスラム教への脱皮をしなければならないのだ。
本当は神を切り捨てるのが好ましい。僕は今日髪を切った。船内の床屋を初めて利用した。
読書「バナナと日本人」 鶴見良行
レストランのオープンテラス
田舎者の僕はワインもカクテルも飲みません。チーズも食べません。しかし、こんなおしゃれなレストランでビールはやっぱりまずいでしょう。赤ワインにブルーチーズを注文しましたが、あんなまずい物をよく平気で食べるものですね。
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イスラム教の矛盾
イスラム教は「宗教」ではなく「法律」である。従って「信仰」は「実行」になり、政教一致、聖俗一致として、国家体制から経済、文化、個人生活に至るまで拘束力を持つに至る。イスラム国家は憲法を持つことができない。イスラム聖法ですべてを裁く。たとえそれが時代遅れのものであっても、神の意思だから変えることはできない。イスラム教を放棄するか、トルコや旧イランのように世俗主義を選択しなければ、法治国家にはなれない。
イスラム国家と民主主義は両立しない。基本的人権も享受できない。一夫多妻や服装など女性は差別されているし、刑罰も公開鞭打ち刑や残酷な「同害報復(キサース)」などが残っている。無意味なあるいは時代にそぐわない禁忌が多すぎる。
経済は停滞し、不正はなくならない。役人は、「給料だけでは一族の面倒をみ切れない」と公然と賄賂を要求する。公私混同が悪であるという意識は希薄だ。何事も神の思し召しのまま」と怠ける人間はなくならない。1日5回の礼拝と1ヶ月の断食で工業が育たない。遊牧民思想から農業も育たない。「強い者が遊牧し、弱い者が耕す」と信じている。
政教一致の政体では、宗教は権力の支配の道具と化す。司法と立法が神学者の手に握られる。神学者は自分の都合のいいようにコーランを歪曲し、国家権力を自らのものとする。カダフィの緑の書もコーランの枠内での改革路線であり、民主主義や人道主義からはほど遠いものである。血族意識と宗派意識は、社会主義国における「マルクス・レーニン主義」、日本の「平和と民主主義」同様、イスラム世界の絶対原理である。
キリスト教、仏教が主として教義の分裂から政治的対立に発展したのに対して、イスラム教では政治的対立がもとで教団が分裂し、教義の対立に発展した。宗派間の対立は激しい。ナショナリズムが教義に優先し、大同団結はない。国内政治も、軍部や宗教勢力主流派による独裁で、基本的人権はない。血族優先は必ず腐敗を生む。「アラブの大義」も「汎イスラム主義」も専制政治の道具に過ぎない。イスラム世界は一枚岩ではない。アラブは対イスラエル戦で全敗だ。
マホメットはキリスト教を次のように批判した。「唯一絶対神が人間のように子供を持っているとは」と神とキリストと聖霊の三位一体説を攻撃した。中世カトリックは堕落し暗黒世界を築き、プロテスタントが改革ののろしを上げた。イスラム教はその教義上、改革が許されないであろう。絶えず保守派に揺り戻されて不安定な政治を歩むのであろう。また彼は「キリスト教世界には特権的な聖職者階級が存在し、人類の平等の原理に反する」と批判している。しかしイスラム世界の現状はマホメットを嘆かせるのに十分であろう。
マホメットはユダヤ教を批判して「形式主義者の集まりであれなら礼拝しない方がましだ」と言った。現代のイスラム教は行動的かもしれないが、形式主義でもある。
西洋合理主義は批判する。イスラム教徒には、異教徒と根本的に理解し会おうとする姿勢はない。彼らは物事の見方が極端に主観的で、すぐに感情的になる。プライドが強く、劣等感も強く、疑い深く、そねみやすい。都合の悪いことはすべて神に責任を押し付ける。
このことを理解しなければならない。イスラム教徒は、イスラム教的発想よりも遊牧民的発想が強いのだ。彼らは、社会体制としてのイスラム教から、個人信仰としてのイスラム教への脱皮をしなければならないのだ。
本当は神を切り捨てるのが好ましい。僕は今日髪を切った。船内の床屋を初めて利用した。
読書「バナナと日本人」 鶴見良行