民主党は2日、国会内で原発事故収束対策プロジェクトチーム(PT)などの合同会議を開き、政府が国会に提示した原子力規制委員会の人事案について協議した。
だが、出席者からは「『脱原発』の人が含まれていない」などの反対論が相次ぎ、PT座長の荒井聰・元国家戦略相は出席していた横光克彦環境副大臣に「政府側として(人事案の)出し直しができないか検討してほしい」と求めた。
これに対し、藤村官房長官は2日の記者会見で、「ベストの案を国会に提示した」と強調した。民主党の輿石幹事長は記者会見で、「政府から人事案が出れば、政権与党の執行部がだめですということはよっぽどだ。党で決めたことは従ってもらう」と述べ、党所属議員に対し人事案に賛成するよう求めた。
さて、原子力規制委員会の人事案で民主党内が揉めているようです。民主党が内部で揉めているのはいつものこと、むしろ同じ民主党所属の議員よりも自民党議員と仲良くしたがる人も首相を筆頭として目立つ党ですから、まぁ何を今更と思う人もいるでしょうか。もっとも、安易な人事では困るのも確かです。過去には、武田邦彦が内閣府原子力安全委員会に属していたり、小佐古敏荘が内閣官房参与に任命されるなど、明らかに問題のある人事が平然と行われてきたわけです。このような失態を深く反省すること、そして同じ過ちを繰り返さないよう細心の配慮が委員会の人選には求められます。
しかるに、民主党内の――ことによると世間の反応も似たような結果になるのかも知れませんが――出席者からは「『脱原発』の人が含まれていない」との反対論が相次いでいるそうです。「『脱原発』の人」ですか…… 果たして「『脱原発』の人」とは、どういう条件を満たした人なのでしょうね? 私がフォローしている人、このブログからもリンクを張っているようなブロガーの中にも原発の推進には否定的な見解を持つ人が多い、きっぱりと反対の立場を取っている人も多いですけれど、だからといって「『脱原発』の人」と世間から認知されているとは限らないわけです。むしろ「原発推進勢力」「御用学者」「工作員」などと呼ばれることの方が一般的と思われます。その辺を鑑みるに、単に原発に否定的というだけでは「『脱原発』の人」として数えられるものではなさそうです。
では、いったい何を基準として人は「脱原発」と周囲から認定されるのでしょうか? 端的に言えば「脱原発デマ」とでも呼ぶべきものへの態度が、世間に「『脱原発』の人」として受け入れられるか否かを分けているように思います。放射線の影響について、誰が考え出したのか定かではない怪しげな言説や歪められた理解を広めて恐怖を煽るのに積極的であれば、ほぼ間違いなくその人は「『脱原発』の人」として迎えられることでしょう。一方、放射線の影響について今までの研究で分かっていることを解説し、諸々のデマの誤りを指摘するようであれば「原発推進勢力」「御用学者」「工作員」などとレッテルを貼られるのが原発事故以降の約1年半だったわけです。原発への態度ではなく、デマへの態度が「脱原発」かそうでないかの分かれ道なのではないかと言わざるを得ません。
この辺は福島に限らぬ東北圏の農産物やガレキなどにしても然りで、根拠のない風評を垂れ流しては被災地に纏わる諸々が世間から敬遠されるよう仕向けてきた人々は、誰からも「脱原発」の人として認識されていると言えるでしょう。逆に、その風評を否定してきた人は例によって「原発推進勢力」「御用学者」「工作員」と今日に至るまで罵倒されてきました。あるいは、デマや風評被害の拡散にまでは積極的でなくとも、黙認することが「脱原発」サークルの最低限の条件でしょうか。すぐにボロが出るようなデマを自ら口にはしないまでも、さりとて否定もしない。ただし脱原発論者が語る妄想の誤りを指摘する人に対しては常に攻撃的な態度を取るなど、そうした振る舞いによって「脱原発」の一員として認められている人もまた多いように思います。
原発そのものには否定的でも、「脱原発のためだからと言っても嘘はいけない」と考える人は、「『脱原発』の人」から同陣営とは扱われていません。逆に脱原発無罪とばかりにデマの創作や拡散に熱心な人、それが垂れ流されるのを内心では期待しながら眺めている人、そういう人だけが「脱原発」の同志として扱われているのが実態なのではないでしょうか。これは近年における「愛国/反日」の概念に似たところがあるように思います。自称愛国者達の「愛国」言論に靡いている人だけが「愛国者」で、その偏見や差別的な姿勢に批判的な態度を取っていれば、自国(日本)を愛しているかどうかに関わりなく「反日」「在日」「工作員」とか呼ばれたりするわけです。「脱原発」も同様で、沸騰する脱原発言論に靡いてこそ「脱原発」、そこで自浄能力を発揮すべく誤りを指摘すれば排除され、敵視される、そんな危険な領域へと突入していると言えます。
結局のところ、脱原発のためなら嘘でも構わない、その嘘を否定するのは脱原発の敵だと、そういう態度を取り続けている人だけが「『脱原発』の人」として仲間内で認められているのが実態なのではないでしょうか。脱原発言論の中で頻発する誤解や偏見、捏造や誹謗中傷の類に批判的な態度を取り、かつ原発そのものにも否定的な人は少なくありませんが、こうした人は専ら「『脱原発』の人」から敵視されてきたのですから。典型的な「『脱原発』の人」である武田邦彦は、あろうことか内閣府原子力安全委員会に属していました(この時点での原発への態度はさておき、トンデモぶりは昔からだったはずです)。その過ちが繰り返されるようなことがあってはなりません。これ見よがしに「『脱原発』の人」を委員に加えれば世間のウケは悪くないにせよ、それが事態を紛糾させ迷走させることはあっても問題解決へと繋がることはないでしょう。「脱原発」という錦の御旗を掲げていても嘘は許されないと、最低限そういう良識を持っていることは、原子力規制委員会に限らず必須要件です。
原発について実際のところを色々と教えてくれるような人が、この反原発論の中で少なからぬ誹謗中傷に晒されているのが実情なんですよね。そして芸能人や政治家など人気商売の人は反原発に媚を売る、と。まぁ色々と危ういと思います。
62歳、男、
その専門家でない人を、専門性が求められる場面に起用していた、あるいは小佐古氏のように情緒面で著しく問題のある人物を起用してしまった、なぜそういう人選になってしまったのかは反省と原因究明が求められるところでしょう。学閥や官僚制の問題というのはとかく槍玉に挙げられますが、その枠にとらわれない自省が求められます。
また軍事力に幅を利かせた化石燃料確保という想定は非常に筋が悪いように思います。それはまず外交努力が優先されるべきものですし、いずれの手段によるにせよ特定の国が化石燃料の確保に走った分だけ他の国の負担にもなることにも配慮が必要です。
地球温暖化問題もデマが横行していますが、世界的に対策会議が開かれ、定説になりつつあります。勿論、現在の定説が未来は覆される可能性はありますが、多くの専門家が賛同しているということは、地球温暖化説にそれなりに合理性があると認められているということでもあります。
内閣参与や原子力安全委員会などについては、東大閥があり、官僚にとって都合の良い人が選ばれる傾向もあるようです。斑目氏などはその典型だったようです。
東大閥については、官僚さんたちは東大卒が多く、また距離的にも霞が関に来てもらいやすいという理由もあるようです。
委員や参与の任命については、平時には問題がなくとも、有事には最悪の人物であった人もいます。官僚さんたちが有事への対処を怠っていたともいえるかもしれません。
化石燃料の輸入には軍事力が不可欠ですが、いまでも必死に輸入しているのに、中国にシーレーンを抑えられて、石油や天然ガスの輸入に滞りが出る可能性を「脱原発」の人たちは考えられないようですね。
病気やけがをして働けなくなることを考えず、貯金ゼロでお給料を毎月使い果たしている人と同じです。
確かに、「脱原発」の指し示すところが都合良く使い分けられていることが多いですよね。昨今の暴徒化した脱原発論に反対でも、もうちょっと合理的な脱原発論にまで反対と扱われる等々。「脱原発」という概念がいい加減に用いられている一方で、敢えて明確に範囲を定めないことで他人を非難したり貶めたりする道具にしている、意図的にそれを行っている人もいるでしょうか。
>ノエルザブレイヴさん
ただその「スピード」にしても、即時の脱原発(稼働停止)が可能だと考える前提として「電力は足りている」などの嘘が出てくるんですよね。その嘘を信じるかどうかで、脱原発サークルの同志として認められるかどうかが変わってくると。
たとえば今回反対論を唱えた人物が「脱原発」を「即時原発全廃、再稼動絶対反対、電力は現状でも原発なしで足りる、福島県民は全て強制避難させるべき」という意味で使っている場合、それを明示した形(たとえば「『即時原発全廃』の人~」)で言うのと、わざと「『脱原発』の人が~」と一般的な表現で言うのとでは、受け手の解釈が違ってくるのですよね。後者の場合、大抵の人はその人の中での「脱原発」という言葉の解釈で読み取ってしまうので、言った人が極めて偏った意味で使っていても「『今後も原発をバンバン新設して推進すべき』みたいなガチガチの推進派ばかりで固められている」みたいに解釈してしまうこともあるでしょうし。しかも一般的な言葉をあえて使うことで、反対する相手をその言葉の緩い解釈さえも全否定しているものとして攻撃できるようにもなります。たとえば自称愛国者の「愛国」は非常に偏っていますが、批判されると「おまえは『桜っていいなぁ』みたいな、日本に対する何気ない愛着まで否定するのか」と「愛国」の定義を急に拡大させて反撃するといった手法などはよく見かけますし。
こういったやり口は非常に汚いと思いますが、この手口が横行している以上、一般的な表現であってもその人がどういう定義でその言葉を使っているのか気をつけないといけないのでしょうね。今の「脱原発」なんて、まさにその最たるものですし。
とかく嘘が罷り通りやすい環境問題だけに自ら襟を正し、トンデモの類を寄せ付けないようにすることが求められるように思うのですけれど、実際は残念な方向に向かってしまうケースが目立つように思います。脱原発論も同様で、どうにも脱原発が第一で語られていることの真偽を無視する人が多すぎます。トンデモの加担者と見なされるのを嫌ってか武田邦彦などの類を持ち上げないまでも、デマが流されるのを黙認するばかりで逆にデマを批判、検証する人を攻撃するなど、結局のところ「脱原発無罪」が行動原理になっている人も少なくない、これじゃぁダメですよね。
今回も途中まではまともな脱原発論を語っていた人が、ある時から武田氏や広瀬隆氏、クリス・バズビー氏などを持ち上げるにいたって、「ああ、ここもか」という脱力感に襲われることの繰り返しです。