非国民通信

ノーモア・コイズミ

広島市の方針はダブルスタンダードではない

2024-04-29 14:19:18 | 政治・国際

「ダブルスタンダードではない」 8・6式典の招待国めぐり広島市長(朝日新聞)

 8月6日の平和記念式典で、ロシアとベラルーシの代表の招待を見送る広島市の方針について、松井一実市長は24日の定例会見で「式典の円滑な挙行に影響を及ぼす可能性がある」と理由を説明した。パレスチナ自治区ガザ地区で戦闘を続けるイスラエルの代表は例年通り招待するといい、「ダブルスタンダードではない。式典をちゃんとやりたいという立場だ」と強調した。

 市は、ウクライナへの侵攻を理由に、ロシアと同盟国ベラルーシの招待を3年連続で見送る方針を明らかにしている。市民活動推進課によると、ウクライナを支援する国が参列を見送る可能性などを懸念したという。

 松井市長は会見で、「一方の戦闘は容認し、もう一方は容認しないという風に見えるのでは」との質問に対し、「それは受け止める方の意思ですから、私としてはどうしようもありません。片方の戦争が良くて、片方の戦争が悪いとは一言も言っていない」と説明した。その上で「ダブルスタンダードは取っていない。(広島市は)平和都市です」と話した。(魚住あかり)

 

 平和記念式典にロシアとベラルーシを排除しつつイスラエルを招待するという広島市の方針について、一部で「ダブルスタンダード」との声が上がっています。この批判を市長側は否定しているところですが、確かにダブルスタンダードではないのでしょう。まず国内「異分子」の武力による排除が招待資格の喪失に繋がるのであれば、ロシア系住民への弾圧を続けてきたウクライナは10年前から排除されていなければならなかったはずです。判断の基準はもっと別にあって、その基準に沿って一貫した対応を続けていること自体は間違いないと言えます。

 先般はアメリカ議会でウクライナ支援の法案が通ったと報じられました。ただ、その「支援」対象にはウクライナだけではなくイスラエルも含まれているわけです。我らが宗主国の判断としてウクライナとイスラエルは等しく支援の対象である以上、その処遇に差を設けてしまえばこれまで共有してきた「価値観」が損なわれてしまいます。ウクライナとイスラエルで扱いを変えることこそがダブルスタンダードであり、等しく招待しようとする広島市の方針には一貫性が認められるべきです。

 

イスラエルとウクライナへの防空支援に差 エストニア首相、西側に苦言(AFP BB)

 イランは今月1日に在シリア大使館領事部がイスラエル軍に空爆されたことへの報復として13日、300を超える無人機とミサイルをイスラエルへ向けて発射した。だが、米英仏ヨルダン軍の支援を受けたイスラエルの防空部隊がほとんどを撃墜したため、被害は限定的に抑えられた。

 この状況を受け、カラス氏は欧州連合(EU)首脳会議の開始前に報道陣に対し、EUの目前で起きているウクライナ侵攻について、「イランのイスラエルに対する攻撃を退けるために各国が行った協力を見るに、われわれにはもっとできることがあるはずだ」「ウクライナに同様の方法で防空支援を提供し、(ロシアによる)攻撃が通るのを防ぐことができるはずだ」と述べた。

 

 こちらは欧州でも際だって日本と価値観を共有しているエストニア首相による発言を取り上げたものですが、一定の批判こそあるもののイスラエルは今なお欧米から強い支援を受けている、同じNATO未加盟国でもウクライナ以上に守られている実態が窺えます。外交において常に「価値観の共有」を掲げてきた日本としては当然、イスラエルへの連帯を示すことに矛盾はない、平和式典へのイスラエルの招待はやはり一貫した判断であると言うことが出来ます。

 

ウクライナ大統領、ロシアとの戦争へのイスラエルの参加呼びかけ(ロイター)

中東での戦争扇動、ロシアを利することに=ウクライナ大統領(ロイター)

ゼレンスキー氏、イランの攻撃非難 ウクライナも支援必要と訴え(ロイター)

 ウクライナの支配を続けているゼレンスキーもまた一貫して、イスラエルとの連帯を掲げてきました。ウクライナとイスラエルは同志であり、片方を招待して片方を除外するとなれば、その理念を全否定することになってしまいます。ゼレンスキーを国会に招待し「閣下」と呼びかけてきたのが我が国であることを鑑みれば、イスラエルもまた盟友と見なした方が矛盾はないと言えるでしょう。日本とウクライナ、イスラエルは同じ国を宗主を仰ぐ同志国であり、そこからイスラエルを仲間はずれにするという判断はあり得ないわけです。

 これも過去に何度か書いてきたことですが、そもそも日本が反省している戦争とは何でしょうか? アメリカとの太平洋戦争は概ね反省されています。しかし日清戦争、日露戦争、シベリア出兵や日中戦争はどうでしょう。日清戦争や日露戦争が「悲惨な戦争」として語り継がれている場面を私は寡聞にして知りません。それは当時の従軍者が既に死に絶えていることもあるかも知れないですが、結局のところ「悲惨な戦争」=「負けた戦争」でしかないのではないかとも思います。

 より具体的に言えば日本はアメリカと戦ったことだけを反省している、もう二度とアメリカには逆らわない、というのが戦後日本の「反省」なのでしょう。ゆえに実際に日本が侵攻したアジア地域に対しては醜悪な自己正当化が目立つ、反省どころか逆ギレ的な対応を政府すらもが見せてきたわけです。戦争全般ではなく、アメリカに背いて敗れたことを反省する、そうした式典から「アメリカの意向に従わない国」を排除し、「アメリカの傘下にある国」を招く、これは人道的でも平和的でもないかも知れませんが、決してダブルスタンダードではない、むしろ一貫性のある判断なのだと断言することが出来ます。

 日本で語られる「平和」とは、アメリカによって天下が統一され、アメリカによる惣無事令に違反する国がない状態を意味しています。アメリカの支援を受けたイスラエルによるパレスチナ人のホロコーストは、この平和と矛盾するものではありません。しかしそれはアメリカの傘下にある国々の間の閉ざされた平和であり、現実にはアメリカの支配下にない独立した国々が着実に力を蓄えているわけです。来るべき未来に広島市や日本が適応できるのかどうか、そのためには根本的な価値観の転換を求められる気がしますね。

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