先日は旧式のクラスター爆弾を禁止する条約に日本まで署名したわけで、これを快く思わないウヨが大騒ぎしています(「右翼」と書いてしまうとごく一部の例外的にまともな右翼も含まれてしまうので、「ウヨ」と書きますね)。まぁ新型のクラスター爆弾は相変わらず使える訳なのですが、しかるにこの旧型の禁止がウヨにはどうしても我慢ならないようで、その辺はどうしてでしょうかね?
旧式だと多くの一般市民を犠牲にしてしまう可能性がある「のに」と考えると、双方の溝は永遠に埋まらないような気がします。道筋を作るためにはこう考えた方がいいのではないでしょうか。つまり彼らは、旧式だと多くの一般市民を犠牲にしてしまう可能性がある「から」旧式のクラスター爆弾に固執するのだと。後付の理由はいくらでもありますが、民間人を犠牲に巻き込む可能性が低い新型ではなく、より危険性の高い旧式を彼らがを好むのは、要するにそういう性向を備えているからです。彼らは犠牲の少ない方法よりも犠牲の大きい方法にこそ、より深い異議を感じるのです。
橋下知事、初の団交出席 職員「私たち悪いことした?」(朝日新聞)
「私たち、何か悪いことをしたでしょうか」――。大阪府の352億円にのぼる大幅な人件費削減案をめぐり、橋下徹知事は2日、職員労組との初めての団体交渉に臨んだ。職員からは切実な訴えが相次いだが、橋下知事は「今回は緊急避難的にやむを得ない」と理解を求めた。
構造改革だの行財政改革だの経営改革だの、色々といかがわしいものは枚挙にいとまがありません。そのいかがわしい代物の目的が仮に適正なものであったとしても、そこで追い求められているものは何なのでしょうか? 少なくとも、掲げられた目標に達することではないでしょう。目標を果たす見通しなど立たずとも、それは一定の条件を満たせば支持を集めますし、目標を果たせずとも支持されてきたはずです。結果よりも過程を重視?
それが支持を集めるための共通項は「犠牲」でした。誰かに犠牲を強いること、この生贄を捧げることで国民なり府民なりのヒステリックな支持が集まったわけです。国民を犠牲にすれば国民の支持は集まりました。理想はどこにあったのか? 誰一人として犠牲にしない改革でしょうか? それとも、誰かを犠牲にすることで成り立つ改革だったでしょうか? 迷うことなく選ばれ続けてきたのは、後者です。
何かを成し遂げるためには、何かを犠牲にしなければならない、そう信じられている社会では、何かを成し遂げるために何かを犠牲にすること、それが当然のこととして躊躇なく受け容れらるものです。改革を成し遂げるためなのだから、犠牲は当然のことだと確信し、そこに犠牲を厭う気持ちなどありません。そしてそこに犠牲が存在しないのならば、同時に改革もない、犠牲を作らないことは改革を進めないことを意味するものであり、なんとしても犠牲を作らねばならない、そう信じて犠牲なり「痛み」なりを追求してきたのが日本の向こう7年であり、大阪であり、それを追認する人々です。
何かを成し遂げることと何かを犠牲にすること、両者のトレードオフでしか物事を考えられない人にとって、何ら犠牲を強いることなく何かを成し遂げることなど考えられないことであり、受け容れがたいことでもあります。公務員であることが罪であるという「原罪」を贖わせることなくして改革などあり得ないと人々が考えるように、国民を犠牲にすることなく国を守る(何から?)ことなどあり得ない、そう考える人も少なくないわけです。そしてそう考える人にとって好ましいのは、より多くの犠牲を生み出す兵器であって、犠牲を少なく済ませる兵器ではない、心情的に共感できるのは新式のクラスター爆弾ではなく旧式のそれなのです。誰かが死なない限り自分達は救われないと、そう盲信するのが日本の宗教なのです。
ただ一見すると美談に見える自己犠牲も、自己犠牲が善いものとして称揚されることで、「お前も自己犠牲の精神を持て」とそういう発想に繋がるところもあるような気はします。強欲な人間ではなく献身的な人間がトップに立てば、それは支持を集めるかも知れないのですが、それは時に「お前も献身的になれ!己を捨てよ!」に繋がる可能性もあるかと。むしろ誰もが欲望を持つことを許容できるようであって欲しいな、と思ったりします。
さて、北風と太陽ですが、こと北朝鮮政策を例に考えてしまうと、世論の支持は完全に北風一辺倒ですね。下手をすれば太陽が「利敵行為」として貶められ、北風の勝利を称える寓話が作られかねない勢いです。とはいえ、他人が損をすれば自分の得になるかと言えば決してそう言うことはないわけで、仮に北風が旅人のコートをはぎ取ったとしても、北風は何も得るところがなく、寒さに震える旅人が取り残されるだけ、寓意を込める余地があるとすればそこでしょうかね。
童話の話が続きますが、誰かが「どうも最近の日本人は『北風と太陽』の童話でいうと『北風主義』を好む傾向にある」と言ったのを覚えています。あれは古代ギリシャの寓話だったと思いますが、もし現代日本で作られていたならば、最後は北風が勝つ結末になっていたのでしょうか。
こちらに出入りするようになりまして、管理人さんの考えなども参考につらつら考えてみたのですが…。
みんな「誰かの取り分をどんどん減らしていけば、その分だけオレの取り分は増えるはずだ!」と考えたところが(「取り分」というのは金銭のみならず権利のようなものも含め)、結果は自分を含めみんなの取り分が減ってしまったということなのでしょう。
現代の寓話と言いますか、何とも笑えない笑い話です。
とりわけ「改革」の名の元に犠牲にされる人が多いわけですよね。全体のためにお前は犠牲になれ、と。こうした選別を繰り返すことで、自分は人々の生殺与奪権を握っている、その正当な担い手だと勘違いするのかも知れません。大阪で深刻なのはとっくに負債の増加が止まっている財政事情ではなく、有権者の選択の方だと言いたいところでもあります。とは言え、他の自治体でも橋下が選挙に出れば当選しそうだなぁ、とも思えるだけに、決して大阪だけに限定される問題ではなさそうです。
>sutehunさん
そう、必要条件と十分条件が成り立っていても両者が入れ替わってしまえば、それは成り立たなくなるのですが、その辺が意図的にねじ曲げられている気がします。いつの間にか、「財政再建しなくては」が「府民を犠牲にしなくては」になり、後者が追求されている、シンプルに考えたっておかしいと思うのですけれど、ねぇ。
>単純な者さん
基本的に「ウヨ」はネット中心だと思いますが、産経新聞とかその手のオピニオン誌もありますので、一概にネットの中だけに留まってくれているとは言えないかも知れません。まぁ、部数の少ない媒体ですけれど。
末尾のご指摘ですが、まさにその通りだと思います。ウヨは右翼の支持者では有り得ても、実際に行動をともにできるかというと、間違いなくウヨには無理でしょう。そこは我々にとっても希望でもありますが……
もう〆てしまったのでしょうが、
>昨今では主流になりつつある電波?ウヨなど。
が残っていましたので、原則1日1回を守らない失礼をお許し下さい。
それがウヨのことでありますす。
「ウヨ」はおそらくネット特定なんでしょう。一応社会学風的位置づけとしては、次世代の主要産業基盤を見つけ出せないままの停滞且つ混迷した社会を背景に、次世代の主要産業の有力な道具のひとつのWebサイ・ブログ・パソコン・キーボードをお遊び用具にして刹那的な自己の感性を表現媒体にしている「あおり・あおられ」派とでもネーミングしておけばどうでしょうか?
世の中に現れる人々の動きは例えどんな些細なことにでも興味と理解をする努力はしていくべきとは思いますが、社会現象としては所詮「あおり・あおられ」派ですからさしてセェンセーションに扱うほどの社会現象といえるのかもう少し考えてみたいものです。
歴史的に観て右翼・暴力団が、こういう層を予備軍にするとはいわれています。しかし果たしてこういう手合いが家父長制な統制を旨とする強制的な組織原理に服従しえるガッツがあるのか疑問ですね。
社会の進化に臆病な保守的な思考を好む・・層(と書こうとしましたが層とまでもいうほどのまとまりもない浮遊する存在)ですかねぇ。
では。
『何かを成し遂げるためには、何かを犠牲にしなくてはならない』
これが真だからといって、前段と後段を入れ替えて加工した
『何かを犠牲にすれば、何かが成し遂げられる』
この主張が真になるわけではない。
こういう当たり前のことを理解できてない方が多いんでしょうかね。
たんに。
おバカさんが多いほうが気楽。な私です。
知事になったばかりの頃、この方
「自分の言動で巨像を動かせる事に感動する」
と、独裁心、支配欲丸出しで権力を手にした喜びを語っておりました。
最近ふと思ったのですが、人々が苦しんでいる姿を見れば見る程、自分の手にした権力の大きさに悦に入れるのだろうか?と。
結局最後は「命」を支配したがるようになり、数々の独裁者がやってきた「虐殺」になるのでしょうか?
それこそ「私は神だ」のごとく。
今だって間接的に多くの日本国民が政府の名の元に「殺されて」いると私は思っています。
残念、現実の大阪府の財政事情は君のお花畑の中とは違って、そんなジリ貧でもないんだ。ただ危機的状況にあると信じたい人が押し寄せているだけなんだよね。
>abcdさん
じゃぁ、君たちが犠牲の少ない方法よりも犠牲の大きい方法を常に選択するのはどうしてなんだい? 好きだからでないのなら、損得や利害の計算が出来ないからかな?
>貝枝五郎さん
御紹介を毎度どうも。一目で判断できるものでもなさそうですので、私の判断は差し控えさせていただきますね。
>単純な者さん
端的に「右翼」と言ってしまいますと、必ずしも意図した範囲を指し示せないのですよね。仰るような歴史的経緯を継いだ正統派の右翼もいれば、政界と結びついた利権団体みたいな右翼もいれば、昨今では主流になりつつある電波?ウヨなど。個人的に評価している鈴木邦男さんなんかは右翼ではなく「民族派」を称しているようですが、民族派と言っても怪しいのばっかりですし、この辺の使い方は迷うところです。
>nakayosiさん
勝手ながらひっそりリンクを貼らせていただいております。それはさておき、結局のところしわ寄せは府民、県民に。悪者探しに奔走する人もいますが、肝心の問題解決にはかけ離れるばかり、と言ったところでしょうか。
>kamaさん
犠牲者が出るのが好きなんですよね、国民の側が。そして誰も犠牲にしない方法など検討される前から排除されてしまうわけでもあります。これを脱するには国民の側が賢明にならなくては、というのがいつもの持論ではあるわけですが、ヒステリックな同調圧力の方が圧倒的ですね……
>黒尼さん
「鋼の錬金術師」は寡聞にして読んでおりませんが、まぁ何事も差し引きゼロになるわけではないもので、何かを犠牲にすればその分だけ全体がプラスになるはずもなく、全てがマイナスになることもあるわけですよね。そしてその逆もあるはずなのですが、何かを犠牲にしないと何かを得られない、そういう考え方は根強いようです。
と云う理屈は子供には理解しやすいですからね。
そこで考えがストップしてしまって「だから自分たちの言ってることは正当(フェア)だ」って理屈に行きやすいのでしょう。
「鋼の錬金術師」における錬金術の定義ですね。
実際には同等の対価どころか、その何十倍何千倍の対価を払わせられてしまうのですが。
死んだ者は生き返らず、壊れた街は蘇らない。
その意味では人間の本質を衝く政策と言っても良いわけで、だからこそ連綿と引き継がれ且つ成功するんでしょうけど。
それに抗える冷静な判断力を仮に持っていたとしても圧倒的な同調圧力に打ち勝つ自信は・・・無いなぁ。
国政の堕落をそのままに府や県が幾ら革命と言ったところでしわ寄せは府民・県民にかかるしかないのが常識と思ってます。全体の奉仕者としてコームインサマ達の道徳に期待してるのですが茨城もヒドイです^^
本論にはいつもどうり賛成同意します。
下敷きのウヨと右翼の件を考えていました。
先ず本来の『右翼』とは。
幕末に「天誅」とか「勤王」とかを叫んだり担いだりする「勤王」志士たちが。維新後には復古「神道」が一時勢力を持ちますが、殖産興業と富国強兵の近代化路線により片隅に追いやられます。言論弾圧の『皇国史観』も後にホニャララ団の内部統制に使われる『家父長制』も一応この辺に端緒が現れるのではないでしょうか。また、明治政府が敵である幕府を否定し自分たちのテロを正当化し賛美する教育を行っているわけですから、ある意味『明治朝』に継承される現代でも歴史観などの観念面では引きずっているものが多い。
清に優勢のまま3億円(当時の国家予算の数倍)の大賠償金を得て日本社会に中国蔑視の気風が。東アジアに対する排外主義の源流になったという理解もあります。
大正期以降、リストラ政策にストレスを感じた軍部(鉄砲を持った官僚)がお得意の『仕事を作る』為に満州に進撃した過程で、社会の疲弊を国家社会主義で解決しようとした民間の政治活動は北一輝の国家改造論としても有名です。
一方では『金権』『利権』に群がる別流の「右翼」が戦間戦中、更には敗戦の混乱「隠匿旧軍事資金・物資」を通して現れる。これらがCIAの戦犯岸(シンゾーの誇るべきお爺ちゃん)を政界に遊泳させ政権の座に押し上げた際にも使われたとも云われる。
この過程で特徴的にはこの『金権』『利権』方式に利用価値を見つけたホニャララ団が政治結社化して合流?したこと。政治活動の資金稼ぎじゃあないのだろうかという話しは面白いので十分拝聴した方が更に面白い。
政府与党・一部野党に食い込む形で「日本会議」が。これについてはお詳しいWebサイトもあるようですから省略します。
要するに右翼というと何か麗しい思想信条と行動規範をイメージする方はずーと前半の現れ方によって現在を混濁して誤って理解されている為ではないでしょうか?
では。
「原田武夫国際戦略情報研究所公式ブログ」
http://blog.goo.ne.jp/shiome/
たしかに、きちんと筋道だてて考えてみれば天皇制など本質的にはトコトンくだらなく、国民国家という制度以上にくだらないので、『インパクション』(インパクト出版会162号)186ページの「『皇賊新聞』インタビュー」や189ページの反天皇制運動連絡会・水島たかし氏のきじに共感するところですが、戦略・戦術上では御用ウヨクはともかく理念的にただしい右翼との妥協点を見つける必要にかられるかもしれないので、参考までにどうぞ。
もちろん、戦略・戦術上の妥協が必要ない場では天皇制に対する反論に特化した『運動<経験>』(奇跡社)や国家主義者・佐藤優を批判する連載「それからの『外務省のラスプーチン』佐藤優外伝」を載せている『紙の爆弾』(鹿砦社)に共感をいだくのですが、内心の自由と戦略・戦術上の妥協とはかならずしも矛盾はしないでしょう。
まあ、「新型」の条件では対人地雷の代わりとして採用した本来の意味がなくなってしまうからだと思ったがね。
お金も凄くかかるし。
「一般市民を犠牲にしてしまう可能性」などより損失が余程大きいというソロバン勘定。
そのような知識など関係なくても、中国や韓国が無視してるのに日本が真面目にやっても無意味、という印象がブログ主の言う「ウヨ」のもつ感想ではないかな。
>彼らは犠牲の少ない方法よりも犠牲の大きい方法にこそ、より深い異議を感じるのです。
このへんの心理分析は正否をつけようがないし自由にやれば良いと思うが、個人的には妄想だと思うね。
そうなんですよねぇ、トリアージ云々の回でも書いたわけですが、「何かを犠牲にする」この方が次第に必須の条件のように扱われ、その犠牲が目的化しているフシは既に見受けられると思うのです。