非国民通信

ノーモア・コイズミ

「武器」はどこから来たのか

2022-05-17 22:43:37 | 政治・国際

 去る5月9日、アメリカではウクライナ支援のための「レンドリース法」が制定されました。このレンドリース法、日本では「武器貸与法」と訳されます。元の英語では"Lend-Lease Act"ですけれど、いったいどこから「武器」が出てきたのでしょうか。「貸与」は分かります。しかし"Lend"にも"Lease"にも"Act"にも、「武器」という意味はないはずです。"Lendlease"という名前の会社も調べたら見つかりましたが、不動産屋であって武器商人ではありませんでした。

 実際のところレンドリース法は軍事支援に係る手続きの簡略化を図るものであって、そこに含まれるのは武器だけではありませんし、法の制定以前から武器の供与は始まっていたわけです。レンドリースを「武器貸与」と訳してしまえば、その内容を歪曲して伝えることになってしまいます。正しい訳であるとは言いがたいですが、誤訳が発生しうるほどの難しい単語でもないことは明らかで、ならば意訳を超えた「意図のある訳」と解釈する他なさそうです。

 先日も言及したように、ガンジーが掲げた「非暴力」が日本ではしばしば「無抵抗」と訳されて来ました。この辺は武を尊ぶ日本の精神がよく現れていると言いますか、抵抗とは力があってこそ可能になるものと信じる人々、力なき抵抗など想像できない人々からすれば暴力(軍事力)の放棄は無抵抗に等しいものだったのでしょう。多くの日本人にとって「武」の有無は決定的な意味を持っている、非暴力は無抵抗と受け止められがちで、逆に軍事支援であるからには「武器」を指すものと自然に考えられてしまうと言えます。

 戦争は本来、武器だけで成り立つものではありません。兵員の生活や輸送に必要な物資もそうですし、それを支えるインフラ資材がなければ戦争など行えない、武器しか持たない軍隊など戦地に辿り着く前に崩壊してしまうわけです。これを理解しなかったのが昔年の大日本帝国で、餓死・病死が戦死を上回ることすらありました。だからこそ軍事支援は武器「以外」でも当然のこととして行われているのですが、それでも「レンドリース」に「武器貸与」との訳を当てるところに日本の変わらぬ戦争観が滲み出ています。

 実際のところ日本もまた、平和ではなく勝利を訴えるウクライナ現政権へと軍需物資の支援を続けています。日本も立派にウクライナの戦争へ積極的に協力しているのですが、それでも「武器は送っていないので軍事支援ではない、戦争参加ではない」との国内向けの建前があるのかも知れません。日本が送った物資も戦争継続には立派に貢献していますけれど、「殺傷能力を持たないので武器輸出ではない、軍事ではない」みたいな理屈が国内では通用するわけです。そしてアメリカの軍事支援と日本の支援との違いを強調するべく、レンドリースに敢えて「武器」という原語には存在しない訳を付加してきたのでしょう。

 

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 昨今「日本の防衛力はもっと強化すべきだ」と考えている有権者が増加しているとのことで、朝日新聞と東京大学の共同調査によると6割を上回ったそうです。こうした傾向を否定的に見ているメディアもありますけれど、調査を発表した朝日新聞でも一面を飾るのはNATO陣営のプロパガンダやウクライナの大本営発表をそのまま垂れ流すような記事なのですから、自業自得ではないかという気もします。私自身、現実が大手メディアによって報道されているとおりであるならば防衛力強化しかないと思いますので。

 護憲派と目されるようなメディアであっても、大々的に報じられるのは専らロシアの非道であって、公正な報道と呼べる代物にはロシア国内で稀に出てくる反体制発言と同じくらいの頻度でしかお目にかかれません。大手はどこの新聞を読んでも、急にロシアが攻めてきた、一方的に侵攻してきたようにしか読めない記事を前面に掲げているわけです。そうした報道を信じるのであれば、防衛力すなわち軍事力の強化しか選択肢はないと判断するのが当然です。

 しかし現実には戦争の開始へと至るまでに長い段階がありました。首脳会談レベルでは合意があったはずのNATO不拡大は反故にされ、ウクライナでは暴力革命による体制転覆もあった、ロシア側の当初の要求はウクライナのNATO非加盟であり、この時点では平和的な解決も可能だったことは言うまでもないでしょう。そして外交での解決を拒んだのはウクライナでありNATOです。勿論ロシア側には泣き寝入りという選択肢もあったにせよ、外交での解決という選択肢を自ら放棄した側が戦争での解決を選んだ国を非難するという構図には、疑問を感じるところもあります。

 外交での解決を放棄するのであれば、他に何が解決策となるのでしょうか? 本当に隣国が突如として攻め込んでくるのなら、防衛力=軍事力の強化が必要だと考える人の増加は妥当です。逆にもし軍備増強へと舵を切ることを快く思わないのであれば、戦争が始まる前に対立を解消することは可能であったと世に知らしめる必要があります。ウクライナとNATOは外交での解決を拒んだから戦争を回避できなかったのであり、軍事力に頼る前段階での解決は可能だった──そう伝えてこそ、防衛力=軍事力強化への反対に一貫性を持たせることが出来ます。

 軍事力による解決を望まないのであれば、別の手段での解決のために不断の努力が求められるはずです。戦争には必ず前段があります。しかるに護憲派と目されるようなメディアであっても、いざ戦争が始まってから攻めている側の国を非難するだけに終始する、一方の国にのみ肩入れし「勝利」を希求しているのが実態です。現代でこそ平和を謳いつつ、過去には開戦を煽る急先鋒だった新聞社もあります。そうした精神は現代にも脈々と受け継がれているのではないでしょうかね。

コメント
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