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Lang ist Die Zeit, es ereignet sich aber Das Wahre.

知性の排他性。

2007-06-07 06:48:44 | Enigma
人間の「知」は、他生物と為す生命圏において
何らかの「優位性」を持つであろうか。
私はそうは考えていない。

生命圏の相の振る舞いは、各々が各々に相補的な構造を為している。人間の「意識的な知」は、他生命の準知性的な振る舞いと相対的な劣性とリスクを、あらゆる論理層で生じさせている。では、知性とは何の為に必要であったかといえば、答えを究極的に単純化すれば、他生命に対し、地球の表層的な適応度地形において、マスゲーム的な論理層での優勢を得るに至ったプロセスを導くのに必要な、認識や環境への干渉に関わる種々の手段の獲得である。かくて、人の「知」は、他生命に対する堅牢な「防御性」(これは翻せば「排他・攻撃性」と同義である。)を伴って、進化を遂げて来た。

こうして人間の知性は、社会構造によって形成されるが故に、同じく社会構造を持った知的、及び準知性の敵対行動に対し、本能的な危機感を抱くのかもしれない。それは、自身の独占しているゲームの優劣を書き換えられる干渉性が伴う可能性を生じるためである。仮に、第三種の社会的知性、あるいは人間との関係性の中で徐々に知性に至る準知性の存在が認められるならば、長周期的であれ、彼らに自身への排他性を発揮させぬよう、様々な手段が講じられるであろう。

人の天敵は、現状のところ人自身である。それは、人が人の振る舞いに対する干渉性を持つからであり、そう感じるのは、お互いに同質な生命的・社会的構造を共有しているからであるが、仮に第三種の知性が同じ適応度地形において併存する場合、共生か排他、いずれの道を辿っても、第三種知性を含めた生命圏の個体 対 個体のあらゆる論理層でのサバイバル構造は普遍である。我々はこのように考えられる未来に対し、現在においてどう戦うことが出来るだろうか。拮抗しうる知性の可能性を潰やすこともあれば、そのような準知性に対し、敵対関係を築かないよう注意することも出来る。情による庇護も、そうした戦略的な側面から分析可能だ。

自然界のサバイバル構造は、人の社会構造に干渉するような社会的な知を生成するかもしれないし、しないのかもしれない。どのみち、人間の危機察知能力が、どのようなレベルで感受され、解釈されるかは、人と人が議論を戦わせて審らかにしていくしかない。しかし、それが真実だとは思わないことだ。人は未だ独断的なルールのゲームプレーヤーでしかないが、世界を動かす法則はもっと確かなはずだからである。


ということを、IWCの反捕鯨の主張から読み取ってみた。しかし日本の現実的な要求に対して、(米国も認めている)IWCの些か教条主義的な姿勢は、傍目にもナンセンスに映るのであろう。


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1 コメント

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米国でない単純とかを認識しなかった。 (BlogPetのmoony)
2007-06-08 10:46:44
米国でない単純とかを認識しなかった。


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