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Lang ist Die Zeit, es ereignet sich aber Das Wahre.

思考ゲームと公発言の違い。

2007-01-31 04:40:55 | ニュース
柳沢伯夫厚生労働相の「女性は産む機械」発言。
これに乗じた対抗勢力の悪意的な動きの方が
問題のような気もしてきましたが、

さて、この発言の何が致命的なのかというと、

「女性は人間である」
「人間を機械に例える」
「女性を機械に例える」

この三段論法を段階的に分解していくと明らかです。
氏の不配慮な発言は、少なからず女性の差別視から
発せられた可能性が高いかもしれません。

しかし、それはどちらかといえば心証の問題であって
論理的に自明なことから探ると、
彼の発言の芯にある「おかしさ」とは、こういうことです。

「国民は経済的な装置である。」

人間を機械に例えた場合に生じる歪みが悪印象となります。
「装置」は「装置」の為に働きません。
そこに搾取者のような存在を感じさせてしまうのですね。
だから普通はこんな発言はしません。

でも「女性」だったらどうか。
それこそ「女性差別」と非難されるかもしれない。
しかし、彼にはそこで心理的なスケープゴートが
働いてしまいます。

「私の発言の本質は女性差別ではない。」

そう、本当は「国民差別」なのですから。
「言ってはいけない」けど、「真意は違うんだよ」
という二段階の免罪的プロセスを経て、
本当に言ってはいけない発言が生まれてしまうこともあると。
もう一つブレーキが足りませんでしたね。
これは「迂闊」というレベルだと思います。

思考ゲームで、経済活動をモデル的に捉える場合には、
ある意味有効な切り口ではあるのかもしれません。
でもそれを説明するときに「装置」と例える必要もないわけで。
公的な発言というものは、なるべく自由な解釈の余地を
与えないことが理想的です。
「周囲を一律に動かしうる力」を必要とされる場合が多いのですから。

あの発言は正に、攻撃される隙だらけのエラーコードを打って、
案の定プログラムを違う方向へ走らせてしまったという結果に。
考え事と公的な発言との間に垣根を設けるということが、
尊大な人たちの最も苦手とすることなのでしょう。


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