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Lang ist Die Zeit, es ereignet sich aber Das Wahre.

PROMETHEUS

2012-08-20 14:21:03 | 映画
Prometheus



□ Prometheus

>> http://www.foxmovies.jp/prometheus/

Director: Ridley Scott
Writers: Jon Spaihts, Damon Lindelof
Stars: Noomi Rapace, Logan Marshall-Green and Michael Fassbender
Music: Marc Streitenfeld
Additional Music: Harry Gregson-Williams


『プロメテウス』…人類に智慧を与え神の怒りを買い、その罰によって半永久的に内臓を鳥に啄まれ続けることになった神話上の存在。


やべぇ。最初から最後の一瞬まで、徹頭徹尾、私好みの映画だった。魂が震える。

ラストで決めて来たね。欲を言えば、ラスシーンのアレは同じアレにして欲しかった。
最新の映像技術で描写されたDNA二本鎖が美しかった。とにかく最期の瞬間まで美しい悪夢を見てるような映画。そして、これを「エイリアン前史」として観ることは重要。

確かに登場人物の行動原理に説得力がない部分はあるものの、私は寓話として楽しめました。

主役と言えるマイケル・ファスベンダーの怪演もさることながら、彼の演じる孤独なアンドロイド、デイヴィッドのキャラ付けがパーフェクト。この映画の魅力の半分は彼の存在が醸成している。かたや、「父親」にロボットのように育てられたシャーリーズ演じるヴィッカーズとの対比も良


ちなみにプロメテウスの『エンジニア』のヘルメット(?)の造型は、インドのガネーシャに宇宙人説をとなえたデニケンとか通過してるとニヤリ。




"Wheel of Fortune" (運命の環)

悪夢と言ったけれど、"PROMETHEUS"はまさしく、人類が太古の昔から生命の揺り籠で見ていたような「夢」の輪郭を擬えるような物語だ。それを隙のない語り口で具現化して見せる監督の手腕は、他でもない『ALIEN』の方法論で擁したものかもしれない。


ALIENとPROMETHEUSは、時系列とは逆に、事象の構成が入れ子になっているような感覚を覚える。それはALIENの既視感であり、親と子の愛憎と、異形の侵襲、そして宇宙の孤独の中にあって、生命にとって「似たものとは何か」その親和性の根源に至る。

入れ子とはつまり、ALIENで起きたことは、未知の宇宙生物の生態や習性故に導かれたものであるけど、PROMETHES号の乗船員が同じような運命を辿ることにより、生命の業の必然性が時間を超えて二つの事象を結ぶことになる。『エンジニア』の人類への怒りの理由はそこにあると、私は見た。

神は自身に似せて人間を作りたかったのではない。神は神たらしめたものを知りたかったのだ。




映像作品として見ると、プロメテウスはホラーやSF映画の型枠にハマったエンターテイメントを中心には据えていない。ブロックバスター映画の場合、花火の十号玉を幾つ多く魅せられるかという定型にハマりがちだけど、プロメテウスは終始、物語を叙述することに徹し、丁寧に雰囲気を作りあげ逸脱しない。



特に女性なら感じる生理的嫌悪感を煽り立てるような中盤のシーケンスは、エイリアンとプロメテウスが、父と母と子の関係性で結ばれた普遍的な『拒絶』の物語であることを象徴している。


エイリアンでリプリーを演じたシガニー・ウィーバーは、一作目を「レイプ映画」と一刀したそうだけど、プロメテウスはまさにそれ。その意図が明かされないのが、生命の根源的な問い、"Quo Vadis"によって宇宙の絶望的な深淵に触れることになる。現実世界の人類が余りにも孤絶しているが故に。

そのレイプに加担するのが、人類側の飽くなき欲望と死への畏れ。不死の拷問に晒されてまで、人に智慧を与えた神話のプロメテウスは何を想うのか。




プロメテウスにおけるエイリアンという観点から言えば、「それ」はなお、私たちが見知らぬ異形である必要があった。それ故のディレクションなのだと思う。近縁で果てしなく遠い何か。点と点が引力のように引き合う感覚。


そして、その存在自体が、『エイリアン』という作品に顕われたエイリアンの形質の特異性を引き立てるものに他ならない。

この作品において、人間側が解釈したことはミスリードのフラグにしか映らない。『エンジニア』に感じたのは『魂の希求』だ。だからアンドロイドとエイリアンの対比が映える。





また、この映画が酷評されてる理由が、私が最も好きなところなのが面白い。こういう悪夢のような映画がずっと観たかった。お金かけたからと言って、お行儀良すぎる映画が多過ぎる。


それでも残念なのは、エイリアンから期待できるような、世界観を裏打ちするセットや舞台装置に『ディテール』を余り感じられなかったこと。エイリアンには時代を超えたリアリティがあり、プロメテウスには悪夢のような寓話性が強調されている。



ただこれを観て『聖書原理主義』だの糾弾するのはズレてるとしか思えない。本作におけるDNAの描写は、寧ろパンスペルミア仮説が真面目に議論されてるだけに。これに寓話性を求めるか、フィクションのディテールを求めるかが評価の分水嶺になりそう。


プロメテウスにおいて『ディテールが見えてこない』というのは結構重要で、それは空気感の描写が上滑りになっていることの現れでもありそうなんだよね。美術は圧倒的にパワーがあるのに、尺やフレームに捉えきれてない感覚があり、近年のSFにも近い当世的なアンニュイがある。


例えば『エイリアン』で、リプリーがノストロモ号を自爆させる為に行う、謎装置の謎操作をじっくり見せるというシーケンス。観客にとってなんら意味を感じさせない行為なんだけど、あういうシーンの一つ一つが、エイリアンの世界のリアリティを構築していたわけ。昨今の映画製作では許されないのかも



登場人物がステロタイプ的に動かされていると言うのは、確かに不満な所。「あーすればいいのに、こーすればいいのに」と飲み下し難い部分も多かった。ただこれにも密閉空間での侵略ものが流行った、80年代的テイストを感じる。エイリアンとの入れ子構造を狙って、ああせざる得なかった。




話の筋としては、宇宙の遠い星にあった古代の遺跡に、人類の起源らしき舞台装置があって、人間がそこで右往左往するだけの物語。だからこそ普遍的で揺るがないリアリティがある。人が問い続けて来た謎を、現実に求めるか未来に求めるか、どちらにせよ我々は解答を与られていない、見放されていることの疎外感。



未来に求めるものは、ここにはないということ。だから夢に託すしかない。プロメテウスはその意味で、極上の悪夢を提供してくれる映画。

創造主に見放された『エイリアン(疎外者)』は我々であり、かつて我々から生まれたものだというトートロジーなのだ。






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