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Lang ist Die Zeit, es ereignet sich aber Das Wahre.

不可避な相反効果 -The Inevitability of reciprocity effect.

2007-05-16 19:15:08 | art music
□ 4枚カード問題 推論と社会ルール

>> http://homepage1.nifty.com/NewSphere/EP/b/psych_cards4.html

上記の、有名なウェイソンの「4枚カード問題」、そして「コスミデスの実験」を例にあげるまでもなく、人間の脳は、自身の利益、不利益について、とりわけ他者の「不正」に関しては、その論理性の認識を最も敏感に発揮するようになっていて、それは人が「社会性」を築く上で身につけて来た、最も原始的なbehaviorの一つだと言えます。逆に、個人の帰属する社会ルールは多様化しており、とくにグローバル化の著しい現在の地球上では、お互いの信条や損得を巡って、「大義は我にあり」な衝突が絶えません。

国家・民族といった、地理的なグループの相反に限らず、宗教、学術、企業間など、あらゆる階層の社会性グループについても同様に対立が生じます。集団とはいえ、それは「個人」の集合ですから、その個人は、自身の利益のために集団を構成しているわけです。究極的には、グループに帰属していなくても、全ての個人は隔絶されながら、何らかの思考パターンを他者と共有、あるいは個別に共時的に展開してます。また、あらゆる言説、思考は、何らかの類型として分類可能なものの、「分類可能」であることと、言論の「本質」は全く次元を異とする問題であることを断っておきます。

では、「人は利益の為に自身に教条を課すものである」これを原理的な命題と置き換えると、「個人の利益」とは何か?という疑問が生まれ、無限に解釈が広がってしまいます。しかしここで翻すと、あらゆる個人の価値観は、それが負荷と関係性を持ち得るあらゆる社会性グループに対して、相補的に構造を成すために必然的に他者と衝突し、相互、或は自身の内において利益相反を引き起こす。言説は、そうやって外部の様々な評価や攻撃、議論によって、打ちのめされることもあれば、より補完され、堅牢に表層を構築していくこともあるでしょう。


しかし人間が備える思考や教条は、時間的に不連続面、そして自己矛盾を抱えていないと、閉塞状態に陥る。同じ考え事や一つの行動原理に縛られたままでは、どこかで自分と対立条項を持つ観念領域を内包する、社会的に「必要な」思考や概念にシフトすることができない。単純に人間は、日常生活を円滑にするために、厳密な論理計算は行わないし、ニュートラルに矛盾を甘受します。そもそも人間の脳は「論理的に」物事を解釈する為に作られたものではありません。これは、人は意識的に「ある問題」に直面する以外の時間では、自己のスタンダードを「忘れている」か、あるいは問題に対応する意識の「セグメント」が統括されていない状態なのだと思います。複合的(Complex)な問題について言及するときは、問題の複雑性から、自己の他の主張と食い違う矛盾のある言及がなされてしまうのも、これが要因として働いていると言えるでしょう。転じて、「問題」とは何か。これこそが、外世界と対立し、議論によって相反し得る教条を人に齎すものなのです。


「議論」の過程における最大の障害は、誤謬による論点のズレと攻撃性の超過です。上の心理テストからも予想できるように、人は時に感情によって論理を扱うことがあります。誰かの言説によって自身の感情が負の方向に刺激された場合、心の何処かでは、その言説が巡り巡って、自身が行動する社会の中で、いつか不利益をもたらすかもしれない、という不安が働くのかもしれません。

ここには、無意識に「周囲の他者」への関心が働いています。人は、自身の振る舞いがそれを取り巻く環境に評価され、審判されることを自覚しており、その中でどうにか対立する観念を打ち負かして、それを他者に認識させたいという欲求があるもの。しかし自身の感情にあまりにも敏感になるあまり、「その人の言っていない」ことまで恣意的に解釈として抽出し、それに対して攻撃をする為の「反定立」を立ち上げ、精神的な充足を得るという事柄が、自覚、無自覚に関わらず、公的な弁論、オルグによる社会システムへの義憤、末端では日常会話といった様々なレベルにおいて、過去から往々と繰り広げられています。こうして問題の核心(あるいは核心の探索)を置き去りにして、自身の利益・不利益のみを追求する議論の仕方は、原初の本能にも近い最も野蛮な攻撃性の一つだと、私自身は考えています。


対照的に、社会的にある程度の規模で認知されている言説と言うものは、一つのマーカーと言い換えられるかもしれません。「誰かが」認識可能な形で刻んだ言論に必然・偶然問わずアクセスする人の中で、共鳴できる者が多数いたとしたら、その言説は創発的に「デファクトな」影響力を持ち得ることになります。例えば、ある研究グループが、多額の資金を必要とする仮説を証明したいと思ったら、支持を集める為の理論的な下地と、周知が助けになるでしょう。そのため、あらゆる個人が持ち得る知識や思考は、例えその社会的立場と関係なく見えていても、創発性を築くという意味で価値を持ちます。「自分が発言すること」は、「誰かが言うかもしれないこと」であって、社会を非平衡な散逸構造とした場合、「自分が発言すること」が「誰かが言うかもしれない」ことの確率分布を決定している、つまり「自分がそうするということ」は、「他人も何処かでそうしているかもしれない」ということ。

だから、世界がこうあって欲しいという願いがあれば、まず己に教条を課すことで、例えその情報が秘匿されていようと、必然的に外部に効果が波及する。「あなたがそうした」ということは、「他所でも起きるかもしれない」という確率に循環的に帰結するからです。自身の意識とbehaviorが、そうやって全体の相の振る舞い(個を以て相を生成する原理的なシステム)から導出されているのかもしれないというパースペクティブでは、全ての一人の人間の内省的な世界に均質に意味を付与することが可能になります。


人は永遠に孤独な存在であって、どんな教条を持ち合わせていようと、人間は恒に1対1の関係性の中でサバイバルを行っているのです。刻々と変わる世界環境によって、社会規範も恒に揺れ動く。結局、観念的な議論と衝突をどう処理するかは、対立する相手やグループとどのような関係を築きたいか、ということに由来し、帰結するだけの問題でしかありません。並び立つ矛盾と逆説。「ものを言うことの胡散臭さ」あるいは「沈黙の欺瞞」の選択を超えて、あらゆる言説や観念を構成する信号を組み替えながら、あなたにはこの世の不条理と戦う意識が委ねられています。迷い、見失うことがあれば、自分の感情を苦しめるものは何か、根拠の定かでない損得勘定に意識を割いてはいないかと自戒し、おそらく人はもっと、「忘れること」の意味を知るべきなのです。






□ tunes of the day

□ Steve Reich / "The Cave"

Act III:New York City:The Binding of Isaac
Act III:New York City:The Cave of Machpelah

ライヒの実験的で巨大、且つ超絶的な合唱作品。タイピングを模したパーカッション、聖書に言及したボイステクスト、それをなぞるストリングス、リフレクトする混声合唱が複雑に折り重なります。

作品のテーマは、「Who is Abraham?」。
アブラハムはメソポタミアに生を受けた、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教共通の預言者。タイトルの"The CAVE"は彼の墓が納められているというMachpelahの洞窟を指しています。これはエルサレム、ニューヨークにおいて、イスラエル人、アメリカ人という宗教、文化、政治的な枠を超えて、それぞれの個人的なアブラハム観をインタビューし、そこから生じた対話のテクストを音楽におこしたもの。人が生きる上で抱える教条の源泉とは何か、様々な出自や立場を持つ人々が、それぞれ宗教や伝説とはどう関わり、どう捉えているのかを対比によって浮き彫りにし、俯瞰的なダイナミズムで描いています。終盤の、オーケストラ、テープ、クワイアの各パートがゆっくりとほどけるように遊離して、全楽曲を総括するシークエンスは、得も言われぬ解放感に満ちています。


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1 コメント

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社会いいかもー♪ (BlogPetのmoony)
2007-05-17 10:57:03
社会いいかもー♪
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